新緑の季節に訪れるなら今年は「秀長の」 3位は竹田城、2位は和歌山城、1位は
美しい石垣と若葉のコントラスト
第3位は雲海に浮かぶ「天空の城」としても有名な竹田城(兵庫県朝来市)とする。播磨(兵庫県南西部)と但馬の国境の要所にあり、天正5年(1577)に秀長が攻略して落城させ、その後、城代になった。生野銀山を管轄するためにも、ここは重要な城だったのだ。その後、いったん毛利方の手に渡ったが、天正8年(1580)に秀長はふたたび奪取。自身は有子山城主になり、竹田城主には桑山重晴がなった。
標高353メートルの山上に、ほとんど崩れずに残る圧巻の累々たる石垣は、天正13年(1585)から城主を務めた赤松広秀が整備したものだとされる。
4月下旬から5月にかけては、山全体がさわやかな若葉に包まれ、石垣とのコントラストが美しい。とくに山上は木が伐採されるなど整備が行き届いている。天守台から見下ろすと、萌えはじめた緑に覆われた大パノラマが美しい。向かいの山(立雲峡)から、新緑に包まれた城山全体を眺めるのもいいだろう。
第2位には和歌山城(和歌山県和歌山市)を挙げる。浅野幸長が大改築し、さらに徳川家康の十男、頼宣が元和5年(1619)に入封後、御三家の城にふさわしく整えたが、城の起源は秀長にある。「岡山」と呼ばれていた地名が「和歌山」に変えられたのも、秀長が築城してからだ。
天正13年(1585)、和泉(大阪府南西部)と紀伊(和歌山県)の征伐後、秀長は秀吉からその両国の統治をまかされ、居城を「岡山」に定めて城を普請するように命じられた。普請奉行は藤堂高虎が務めた。その後、秀長は大和郡山城に在城したので、和歌山城には城代として桑山重晴が置かれた。「紀州の青石」と呼ばれる緑色片岩の自然石が積まれた、勾配がゆるい野面積みの石垣が、この築城当初のものと考えられ、天守台や、西の丸庭園に近い「鶴の渓」などの石垣が該当する。
その天守台には、幕末近くに再建された3重3階の大天守を核とした連立式天守が残っていたが、昭和20年(1945)の空襲で焼失。同33年(1958)に外観復元されている。天守が建つ標高48.9メートルの虎伏山全体が新緑につつまれ、あちこちでたくさんのツツジが開花する。
秀長の本拠地は「ミニ大坂城」
さて、第1位はやはり、天正13年(1585)以来、秀長の本拠地で、天正19年(1591)に息を引き取った場所でもある大和郡山城としたい。奈良盆地の南西部に位置し、縄張図を見ると大坂城によく似ている。本丸が東西に長く、その北端に天守台があり、内堀や中堀に特徴的な屈曲がもうけられているなど、類似点が多い。いわば「ミニ大坂城」で、そのこと自体、この城の位置づけを表している。
かつて金箔瓦が葺かれた豪壮な天守が建っていた天守台に登れば、東大寺や興福寺など古代以来の寺院勢力が一望のもとだ。そうした勢力を抑えつつ大和を支配する拠点だったわけで、東の山を越えればすぐ向こうにある大坂城を守る役割も負っていた。いわば、大坂城と並ぶ豊臣政権の拠点だったのだ。
とくに本丸周辺の石垣には、秀長時代からのものがよく残る。五輪塔や宝篋印塔、仏像に寺院の礎石までを集めて積み上げた野面積の石垣は、秀長が問答無用に石材を集めさせたという記録と合致する。その石積みとまぶしい新緑とのコントラストが美しい。本丸周辺のほか、再建された追手門周辺も新緑のスポットで、広い範囲にわたって爽快な散歩が楽しめる。
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