京都男児遺棄事件を“サスペンス”化するワイドショー 「報道の使命はどこへ」内部からも上がる疑問の声

国内 社会

  • ブックマーク

倫理的な問題

 今回も、遺棄現場、家族関係、供述内容、近隣住民の声、専門家の分析といった要素が、何本もの小さな断片に分解され、長時間編成の隙間を埋める素材として消費されてきた。そこでは事件の社会的背景や児童保護などの制度的課題よりも、事件をサスペンスドラマのように扱う俗っぽい興味の方が前面に出ているように見える。

 遺体遺棄現場の映像や被害者の顔写真などは、見る人にとって心に傷を残すことになる可能性もあるものであり、慎重な扱いが求められる。それらを何度も繰り返し流すことには倫理的な問題がある。しかし、テレビ各局のこの事件についての報道を見ている限りでは、その点についての配慮はほとんど感じられなかった。

 今回あらわになったのは、テレビというメディアの弱点でもある。テレビは本来、社会の空気を可視化し、複数の論点を一度に取り上げながら公共的な議論を組み立てる力を持つ媒体である。

 ワイドショー的な情報番組は、視聴者の不安や怒りや好奇心をかき立てる技術には長けていても、距離を取ってじっくり考えさせることはできていない。たしかに視聴者の側にも、痛ましい事件を前にして「もっと知りたい」と感じてしまう下世話な欲望はある。だが、そこに単純に応えているだけなら、それはもはや報道ではなく、人々に刺激を供給しているだけだ。

 被害者が子供である今回のような事件では、報道そのものが遺族や地域社会にダメージを与えることにもなりやすい。政治・経済のニュースや芸能スキャンダルなどとは別の意味で報道する側に格別の慎重さや繊細さが求められる。にもかかわらず、各局がほぼ同じ構図、同じ論点、同じ温度感で横並びに報じているのは、思考停止に陥っていると言われても仕方がない。

 結局、この事件報道が映し出しているのは、1つの凄惨な事件の異様さだけではない。事件が起きたとき、テレビがいかに簡単に考えることをやめて、既存の型に逃げ込んでしまうかということだ。テレビがこの事件から学ぶべきなのは、何をどこまで伝えるかではなく、何を伝えない勇気を持つべきかということなのだ。

ラリー遠田(らりー・とおだ)
1979年、愛知県名古屋市生まれ。東京大学文学部卒業。テレビ番組制作会社勤務を経て、作家・ライター、お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など多岐にわたる活動を行っている。お笑いムック『コメ旬』(キネマ旬報社)の編集長を務めた。『イロモンガール』(白泉社)の漫画原作、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと「めちゃイケ」の終わり 〈ポスト平成〉のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『松本人志とお笑いとテレビ』(中公新書ラクレ)など著書多数。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。