「絶対の正義」を振りかざしてモメる人が後を絶たない 養老孟司さんが「反体制」についてずっと感じていたこと
攻撃と反撃、炎上と謝罪が繰り返されるのはネット上の言論空間では日常となっている。高市内閣の発足以降は政治関連での議論、口論、モメ事が増えている感、なきにしもあらずである。高市総理支持者とアンチ高市総理の言い合いを見つけるのは簡単だ。
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こうしたモメ事を他人事として楽しめるメンタルの人もいれば、何となく心が疲れるという人もいることだろう。後者の方の場合、他人に正義その他価値観を押しつけることに抵抗をおぼえるという面もありそうだ。「絶対に自分が正しい」という人を見るとウンザリする、と感じる人は少なくない。他人に攻撃的になるのは往々にしてそういう、自分が正しいと疑わないタイプである。
460万部を突破したベストセラー『バカの壁』で知られる養老孟司さんは、同書のほか多くの著書で、安易に「絶対の真実がある」などと思う姿勢を持つことを戒めている。これらは原理主義の一種であり、そうした思い込みこそが「バカの壁」のもととなる、と言うのだ。
『バカの壁』に続いて刊行された『死の壁』は2004年の刊行だが、現在の言論空間や社会状況にピッタリあてはまるような指摘がなされている。
「絶対の正義」を振りかざす人たちに疲れている方にとっては、我が意を得たりという文章ではないだろうか(以下、『死の壁』より抜粋)
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戦争と原理主義
イラク戦争や、このところのテロのニュースを見ていると、日本の大学紛争の頃を思い出します。私は、戦争やテロが嫌いだという以前の問題として、その背後にある原理主義というものが嫌いです。
戦争やテロが起きるのは、原理主義によるところが大きいということはこれまでにも何度も述べてきました。原理主義、あるいは一元論というものを『バカの壁』でも延々と批判しました。
一元論に陥ったときに、人は絶対の真実があると思い込んでしまいます。絶対の真実を信じる人は絶対の正義を振りかざします。そういう人には「あんたが絶対正しいと思っていても、寝ている間のあんたはどう考えているんだ」と言いたくなります。人間、人生の三分の一は寝ているわけです。絶対正しい、と思っているのは起きている間の意識に過ぎません。それ以外の寝ている時間もあなたの人生ではないのか、ということです。
人間は「自分が絶対だと思っていても、それとは別の考え方もあるだろう」というくらいの留保を持ったほうがよい。そうすれば「絶対の正義」を振りかざしてぶつかるということもなくなるのではないかということです。
正義の押し付けがましさ
大学紛争も、かつての日本の戦争も、いずれも原理主義が大きくかかわっていました。テロのニュースからは大学紛争の頃が思い出されると述べましたが、大学紛争の頃には太平洋戦争のことを思い出したものです。
1960年代の大学紛争時、運動をしている側の学生が研究室に押しかけてきて「この非常時にのうのうと研究なんかしてやがって」と言ってきました。こいつらは戦争を知らない世代なのに、なぜこんな物言いを知っているのかと思って驚いたものです。それは典型的な戦時中の物言いと同じだったのです。「お国の非常時に一体なにをやっとる」というやつです。
私は終戦の時にはまだ小学生でしたが、その雰囲気をよく憶えています。田舎から親戚のお姉さんがスカート姿で口紅までして鎌倉に来た。そのとき、「そんな派手な格好でよく平気だったね」などとみんなで言い合っていたものです。
子供心にも、そういう格好で出歩くとどういうことを言われるか、その空気がわかっていたのです。理屈では、そんなことに目くじらをたてるのがおかしいということもわかっているのですが、その一方でそういう空気も感じていた。
私自身は、そういう空気というものが好きではありませんでした。子供がそういうふうに感じることが出来たということは、逆に言えば、昨今言われるほどの暗黒時代だったわけではなかったと言えるかもしれません。
それでも窮屈な空気を押し付ける人はたくさんいました。そして、そういう窮屈さとか厳格さに、ある種の快感を感じている人がたくさんいたのです。
隣に住んでいたおじさんがその典型で、外に出て八幡様(はちまんさま)の前を通るたびに最敬礼をして拍手(かしわで)を打っていました。今の若い人は、八幡様が戦いの神様だということすらご存じないでしょう。
こういう人の押し付けがましさというのが、共同体の持つ一つの体質なのです。平等性を求める。「俺がこんなにみんなのために必死になっている時に、お前らなんだ」という押し付けがましさです。こんな人に「お前らが必死になるからいけねえんだ」なんて言うとぶっ殺されそうな空気があったのです。
「みんなのため」には、本当はいろんなことをしなければならないのです。
みんなが同じことをするということとは違います。それが誤解されてしまっている。いろんな選択肢が消されて一つのことを押し付けてくる。
大学紛争の頃に、ある団体は東大のグラウンドで何と竹やりで訓練をしていた。彼らの中に戦時中に竹やり訓練をした者はいません。それなのにその様はまさに戦時中そのもので、「ああ日本は変わらないな」と思ったものです。
(中略)
政治の対立というのは、実は同じ穴の狢(むじな)ということが多い。一見対立しているようで、実は対立していないことが多い。対立しているように見えても、実は同じなのです。表現方法が逆さになっているだけです。
反権力を声高に言っている者は、つまり俺に権力をよこせと言っているに過ぎない。
決して体制そのものに異を唱えているわけではない。反権力と反体制とは別ものです。全共闘が反体制と言っていた時は、「これは反体制じゃない、反権力だ」と私は思っていました。あいつらが勝ったら結局、「体制側」と同じことをするんじゃないかと思っていたのです。もっと平たく言えば、「俺に金を寄越せ」と言っているだけなんじゃないかと思ったのです。
その証拠に、反体制を唱える集団でも、人間性の素晴らしさをうたう宗教団体関連の政党でも、内部にはもの凄いヒエラルキーがあるのです。











