【豊臣兄弟!】信長の悲願「美濃攻略」の布石に落城した 「犬山城」 いまも解き放たれない数奇な運命

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従弟が籠る犬山城を攻略した信長

 NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、第6回「兄弟の絆」(2月15日放送)で、鵜沼城(岐阜県各務原市)の城主、大沢次郎左衛門(松尾諭)が存在感を示した。永禄5年(1562)に尾張(愛知県西部)をほぼ制圧した織田信長(小栗旬)は、斎藤氏が君臨する美濃(岐阜県南部)を、いよいよ本格的に攻略したい。そこで、尾張と美濃の国境の木曽川をはさんで美濃側の川べりにある鵜沼城を調略するよう、藤吉郎(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀)に命じたのだった。

 藤吉郎が鵜沼城に人質として残る代わりに、小牧山城(愛知県小牧市)を訪れて信長と謁見した次郎左衛門だったが、荷物のなかから先端に毒を塗った刃物が見つかったとして、殺められそうになる。だが、次郎左衛門が殺されれば兄の藤吉郎の命もないため、小一郎は命を張って信長に懇願。次郎左衛門は許され、鵜沼城に戻ることができた。

 第7回「決死の築城作戦」(2月22日放送)では、永禄8年(1565)7月に信長が、鵜沼城とは木曽川をはさんで鼻の先の犬山城(愛知県犬山市)を攻める。この城も「国境の城」で、美濃攻めを進めるためには手中にしておく必要がある。その城主は、信長のいとこで一時は味方だった織田信清で、3年ほど前、美濃の斎藤龍興にくみして反旗を翻していた。犬山城の周辺から美濃へ進攻するつもりの信長にとって、同族同士の争いは、自身の求心力を維持するためにもたちが悪い。

 じつは、鵜沼城など周囲の城を先に攻略したのも、重要な犬山城を万全の態勢で攻めるためだったと考えられる。そして、いよいよ小牧山城から出陣した信長は、犬山城下のいたるところに火を放ち、わずか1日で城を占領。信清は甲斐(山梨県)に落ち延びた。こうして信長は、念願の尾張統一を完全に成し遂げ、美濃攻めに弾みをつけたのである。

 ところで、犬山城といえば現在、国宝五城のひとつである天守で名高いが、天守の評価も含めて、信長に攻略されて以後の犬山城は、じつに数奇な歴史をたどっている。

江戸時代を迎えるまで30年余りで3回の落城

 信長家臣の池田恒興、続いて信長の五男(または四男)の勝長が城主を務めたのち、天正10年(1582)6月の本能寺の変後、信長の次男の信雄が尾張を領有すると、信雄の重臣の中川定成が城主になった。そこに天正12年(1584)、小牧・長久手合戦が勃発した。信雄は羽柴秀吉と対峙したが、犬山城は羽柴方に転じた池田恒興の奇襲を受けて奪われてしまった。以後、小牧山城に本陣を置いた信雄と徳川家康の連合軍に対抗して、秀吉は犬山城を拠点とした。

 要するに、信長に攻め落とされ、続いて、秀吉方にも攻め落とされたわけだが、同様の歴史はまだ続く。

 信雄が秀吉に臣従して以降、天正15年(1587)に犬山城は信雄に返還され、同18年の小田原征伐後に信雄が改易されると、尾張は秀吉の甥、秀次にあたえられ、犬山城にはその実父の三好吉房が入った。だが、周知のように、文禄4年(1595)には秀次事件が起き、石川貞清が城主になる。そこで起きたのが慶長5年(1600)の関ヶ原合戦だった。犬山城は西軍の拠点のひとつになったが、途中で貞清は城を放棄。東軍に攻略された。

 このように江戸時代を迎えるまでの30年余りのあいだに、3回も事実上の落城を経験したのである。

 そして、犬山城の象徴である国宝の天守も、まぎれもなく「国宝」に指定されているにもかかわらず、その歴史が明確には解明されず、諸説が入り乱れた末に、いまなおたしかな着地点を見いだせていない。

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