【豊臣兄弟!】信長の悲願「美濃攻略」の布石に落城した 「犬山城」 いまも解き放たれない数奇な運命
建てられたのは1537年か1601年か?
この天守が国宝に指定されたのは昭和27年(1952)のこと。その際、元来は美濃の金山城(岐阜県可児市)に建っていて、慶長4年(1599)に犬山城に移築されたものだが、初期天守の面影を多分に残している、というのが指定理由だった。たしかに、江戸中期に成立した『犬山城主記』などには、石川貞清が城主のときに金山城から移された旨が記されており、しばらくは、そのように考えられてきた。
ところが、昭和36年(1961)から40年(1965)にかけて行われた解体修理の際、移築の痕跡が見つからず、最初から犬山に建てられたと考えられるようになった。このとき「天文6年(1537)以降ここに建っている」という修理工事報告書までつくられている。
これに合わせるように、昭和40年(1965)、名古屋工業大学教授で日本建築史の権威だった城戸久氏が、1重目と2重目は天文6年ごろ、すなわち、信長に追われた織田信清の父の信康が築城したときに建てられ、慶長5年(1600)ごろに3重目が増築されたと主張した。だが、信長が安土城を築いて城の歴史を大きく塗り替える40年近く前に、この天守の2重目までがすでに建てられていたというのも、いかにも不自然な話である。
そこで建築史家の西和夫氏が昭和52年(1977)に、あらたな説を発表した。1重目と2重目が建てられたのは、関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)、小笠原吉次が城主になったころで、元和6年(1620)ごろに3重目が建て増されたという説だった。
この2つの説では、西氏のものが有力だとされてきたが、すると今度は、古いことに価値を見出していた国宝の指定理由に抵触するのではないか。そんな宙ぶらりんの状態が続いたのち、令和3年(2021)3月29日、犬山市教育委員会から発表があった。
木材の伐採年代は判明したが
市教委に依頼され、天守に使われている木材を「年輪年代法」で調査したのは、建築史を専門とする名古屋工業大学名誉教授の麓和善氏と、奈良文化財研究所客員研究員の光谷拓実氏だった。その結果、樹皮が残る1、2階の通し柱は天正13年(1585)、4階北側の床を支える梁は天正16年(1588)にそれぞれ切り出されたことが判明したという。ほかに4階の部材も、床板や南側の梁など複数が、やはり天正13~16年の伐採だったという。
そうであるなら、犬山城天守は関ヶ原合戦どころか、秀吉による天下統一以前に建てられたことになる。まぎれもない日本最古の天守である。
麓氏によれば、小牧・長久手合戦後に織田信雄の配下によって建てられたものだという。さらには「天正13年(1585)から同18年頃にかけて、一階から四階までが一連で建設されたことは、もはや疑う余地がない」とのことだった(『国宝犬山城天守の創建に関する新発見』)。
ところが、今度は建築史や文化財学の権威である広島大学名誉教授の三浦正幸氏が、木材は天正13年から16年に伐採されたという科学的な検証結果は認めながら、別の説を打ち出した。すなわち、その木材を使って美濃金山城に建てられた天守が、慶長6年(1601)に犬山に移築されたとの見解を、さまざまな根拠とともに発表した。
ということで、いまなお建築年代が確定しない犬山城天守。とはいえ、使用されている木材が織田信雄の領有時代に山から伐り出されたことは、まちがいがなさそうだ。その意味では、この国宝の天守は、この城を美濃攻めに向けて攻め落とした織田信長と、やはり縁があることになる。
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