小5で大病を患い、音楽に出会った 横浜銀蝿のJohnnyが辿った3度の“リボーン”
嵐の加入でプロを目指す道に
テレビにまで出たものの、そのままプロを目指そうなどという思いは毛頭なかったようだ。
「バンドを作ったときからプロになろうというような気持ちはあまりなかったですね。ただただ楽しかったから。売れたいとかっていうよりも、こんなことやったら楽しいよねって。人にどう思われるかも考えずに、やりたいことを楽しんでいたという感じ」
そうした中で高校を卒業し、当時のメンバーもそれぞれ大学に進学。地方に行ったメンバーもいたため、大学時には新しいメンバーで組んでいた。
「大学のメンバーも就職活動などで辞めたりして、ドラムがいなくなったんです。『どうする、翔くん?』って言ったら、翔くんの兄貴がドラムやってるっていうんで、じゃあ入れようよという話になり、それで嵐(ヨシユキ)さんが入って来たんですよ。その後も俺や翔くんは楽しければいいやって感じだったんですが、嵐さんはもう22、23歳になっていたんで、自分の人生を見ていたんですよ、プロ志向で。だからオーディションのテープを送ったりしてプロデビューに向けていろいろ模索していたんで、俺らもそれについていったんですよ。それも面白いからいいな、っていう感覚で」
嵐のさまざまな行動が奏功し、ベースのTAKUを含む4人で横浜銀蝿はデビューを迎えることとなり、プロの道を突き進むことになった。が、それでもJohnnyは「これだけやって来たんだから、青春の記念で1~2枚レコードを出せればいい」という感覚でいたという。ところが、嵐が広げた“大風呂敷”によって、「楽しい」だけではとても済まされない状況へバンドは突入していくことになる。
「キングレコードで1980年にデビューするミュージシャンの新譜試聴会があって、担当の宣伝マンに紹介されたんです。そこで嵐さんが『俺たちは2年間でオリコンシングル1位、アルバム1位を取って、そして武道館を満タンにします』って宣言したんですよ。俺はそんなことは聞いてなかったんで、単なる横浜のツッパリ、不良がそんなこと無理でしょ、みたいに思ってたんですよ。でも後から思えば、嵐さんについていってよかったな、ということですよね」
もちろん楽しいばかりでは、宣言は成就できない。
「自分では病気とかしていた時期もあったけど、結構器用で、それなりになんでも思う通りできていたんです。努力しないでもね。勉強もある程度できたし、女の子にもモテてたし。でもこの時はこのままじゃ無理だと思ったから、本当に努力しました」
メンバーでたくさん曲を作り、ステージが良くなるように全員で動きを練習し……。もちろんレッスンもたくさん受けた。そうした努力が実り、デビュー翌年に発売したアルバム「ぶっちぎりII」で1位を獲得。同時発売したシングル「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」もヒットした。武道館ライブで満員の観客を前にした演奏も実現した。シングルでは「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」がオリコン最高3位だったが、ミュージック・リサーチ誌のシングルランキングで1982年10月発売の「あせかきベソかきRock'n Roll run」が1位を獲得。そんな横浜銀蝿は3年3カ月の間活動を続け、1983年の大晦日に解散した。
***
横浜銀蝿としての3年3カ月をあっという間に駆け抜けたJohnny。第2回【キングレコードでの“裏方”35年を経て… 横浜銀蝿Johnnyが40年ぶりソロ再デビューを決めたワケ】では、バンドと並行したソロでの活躍後、音楽制作の現場に入り、さらに恩師のディレクターに導かれたバンド再結成などについて語っている。







