ナンセンスでも未来を語った高市自民と“モルヒネ”しか説かなかった中道 キリギリスより「アリ」を求めてしまう愚かさ
力強い言葉が未来を語ってはいる
そうだというのに、なぜ「物価高対策」を求める有権者は、こぞって高市自民党に投票したのだろうか。
高市総理の応援演説には、たしかに力強い言葉が並んでいた。試しに栃木県での応援演説から言葉を拾ってみると、「日本列島を強く豊かに」「日本はまだまだ成長できると私は確信しています」「供給力を強くするとともに需要をちゃんとつくっていく。これ、高市内閣におまかせください」。
「責任ある積極財政」に触れた箇所では、さらに力強さを増す。「官民で力を合わせて技術開発を行い、その成果を製品、サービス、インフラにして国内市場にも展開し、海外にも輸出する。そしてしっかり儲ける。税率を上げずとも税収が増える。そこに雇用が生まれ、お給料が上がる。そうすると消費が増え、消費マインドがよくなると企業の売上げも上がる。すると企業は従業員のお給料だったり、研究開発費だったり、設備投資に使える」
実際には、前述のように「責任ある積極財政」は、市場から強く警戒されている。たとえば、いままでなら日米の金利差が縮まれば円高に振れたのに、昨年12月に日銀が政策金利を0.75%に引き上げても、円安はまるで解消されなかった。それは市場が日本に財政の健全化を迫って最後通告を突きつけているからだ、という見方もある。それを無視して夢物語を追えば、恐ろしい「日本売り」のしっぺ返しを受けかねない。そうなれば「物価高対策」どころではなく、私たちの生活が破綻する。
だが、とにもかくにも、高市総理の言葉が力強いことはまちがいない。もうひとつの特徴は、未来を語っていることである。どんなにナンセンスであっても、夢がある未来への道を語っている。総理が説くとおりの未来が訪れれば、そこでは物価高も解消されていそうに思えてしまう。やはり有権者は「アリとキリギリス」の話では、「キリギリス」より「アリ」でありたいのだ。そんなことを考えさせられた。
みな「アリ」のように将来を見通したい
イソップ童話の『アリとキリギリス』は、概ね次のような話だ。
夏のあいだも、アリたちは冬の食糧を蓄えるためにせっせと働く一方、キリギリスはヴァイオリンを弾き、歌を歌うばかり。だが、やがて冬が来ると、アリは豊かに暮らしているのに、キリギリスには食べ物もなく、アリから分けてもらおうとする。その先の結末には2つのヴァージョンがあり、1つは、キリギリスはアリから「あなたは夏に遊び呆けて私たちをバカにしたからこうなった」と指摘され、心を入れ替えるというもの。もう1つは、「夏は歌っていたのだから冬は踊ってすごせばいいんじゃない?」と突き放され、アリの家の前で凍死するというものだ。
高市総理の応援演説は、実現性を問わなければ、冬になればアリのように豊かに暮らせて、キリギリスにはならずに済むように聞こえる。実際には、キリギリスのように、冬が来る前に財政が破綻するか、破綻の烙印を押されてしまう危険性を強くはらんでいるが、いまの閉塞状況から抜け出て、未来に安息できそうな気にさせられる。だから、旋風を巻き起こしたのだろう。
これに対して野党の訴えはどうだったか。
高市総理に対抗して、有権者に響かせる訴えがあるとしたら、それは冬が訪れてもキリギリスのように野垂れ死ぬことなく、冬だろうとなんだろうと、しっかり成長して豊かに成長できる道筋を指し示すことだったはずである。
高市政権の「責任ある積極財政」は、すでに述べたように市場から半ば「ノー」を突きつけられている。そのことは野党にとって有利な条件だったはずである。「財政規律を守って市場の信認を獲得し、円高に誘導して物価を確実に下げる。物価が下がれば消費が増えて企業の売上げも増加し、給料も上がって、ひいては失われた30年も解消し……。しかし、積極財政を進めるかぎり物価は上がり続け、日本の信頼自体が失われてしまうんです!」。
こうして高市自民党とのあいだに争点をつくり、未来への展望を示しながら、「責任ある積極財政」の欠陥を暴くことができたのではないだろうか。
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