【豊臣兄弟!】100倍楽しむために知っておきたい 秀長にはあって秀吉にはなかった決定的な資質

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世間の認識は「実質的に政権を運営するのは秀長」

 それから1年余りが経過した天正14年(1586)10月27日、いよいよ徳川家康が大坂城に登城して、秀吉に臣従を誓った。その後、11月5日には、家康は秀吉と一緒に御所に参内して、正三位権大納言に叙任された。そのとき秀長も同時に、家康と同じ正三位権大納言に昇進している。この官職は、やはり武家では秀吉と織田信勝に次ぐ高い地位で、秀吉の義兄弟になった家康(秀吉の妹の朝日を正妻に迎えた)と、秀吉の実弟の秀長が並んで、諸大名のなかで最高位に君臨することになった。

 その直前の11月2日にも、『多聞院日記』にはおもしろい表記が見える。「秀吉ハ王ニナリ、宰相殿(註・秀長のこと)ハ関白ニナリ、家康ハ将軍ニナル」と書かれている。国内の秩序が乱れて「一揆ノ世」になってしまったら、という条件付きではあるが、人々の認識が興味深い。やはり秀吉は王として君臨し、軍勢を率いて政権に従わない勢力を討伐する役割は、家康が果たすことになっている。そして、実質的に政権を運営するのは、秀長だというのである。

 むろん、これも誤報ではある。だが、家康が秀長に並立する高い地位に就任するようになっても、政権の切り盛りを任せられるのは相変わらず秀長だ、というのが世間の認識だったということがわかる。それがおもしろい。実際、このころまでに秀長が、豊臣政権の内部で果たしていた役割を考えれば、そのように認識されたのも当然だと思える。

 秀長にあたえられた領国が紀伊(和歌山県)や大和(奈良県)だったのは、中世以来の寺社権門の力が強くやっかいなこの地域は、秀長でなければ治められない、と秀吉が判断したからだった。それに、外様の大大名を豊臣政権に従属させる「取次」の役割も、従属した状態を維持するための「指南」の役割も、軒並み秀長がこなしていた。

豊臣政権の「かすがい」だった

 かつての主君である織田信雄を、豊臣政権に臣従させたのは秀長だった。徳川家康が上坂した際に秀長邸が宿所になったことから、家康の臣従も結局、秀長の説得によるものと考えられる。中国地方の覇者であった毛利氏に対しても、一時は四国の覇者となった長宗我部氏に対しても、秀長が取次になった。

 豊後国(大分県)の大友義鎮(宗麟)が上坂して秀吉に出仕した際も、接待したのは秀長で、『大友家文書録』によれば、秀長は義鎮にこういったという。「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候、御為に悪しき事はこれ有るべからず候(内々の事案、つまり私的なことには千利休が対応し、公儀の事案、つまり軍事や政治に関する指南は、秀長がよくわかっているので、あなたにとって悪いようにはなりません)」。

 天正16年(1588)8月、小田原の北条氏が秀吉への従属を表明し、当主氏直の叔父の氏邦を大坂に派遣した。このときの接待役も秀長なので、北条氏への取次も秀長の役割だったのだろう。だが、秀吉と北条氏との交渉が決裂したころ、秀長は病気療養中だった。秀長が健康だったら小田原の役は避けられたのではないか、といったらいいすぎだろうか。

 伊達政宗に対しても秀長は、小田原の役後の天正18年(1590)10月、上洛した際には会談をしようと呼びかけていた。

 秀長はいわば、豊臣政権内部で諸大名たちをつなぐ「かすがい」だった。一歩引いて大局を眺めつつ、謙虚に自分と相手とを見据え、事をスムーズに運ぶためには、さまざまな策を弄することもいとわない――。そんなことができる資質があればこその「かすがい」だったと思われる。『豊臣兄弟!』の秀長には、ごく若いときからそんな資質がよく織り込まれている。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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