左翼的発言で物議、一人娘がタイで客死、日本映画屈指の名作に出演…大女優「山田五十鈴」の光と影【昭和女優ものがたり】

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映画界を去った理由

 黒澤から気に入られた山田は、続けて「どん底」(1957年)、さらに「用心棒」(1961年)で悪女役を演じている。だが山田は、この作品以降映画出演がめっきり少なくなった。

 その理由を明かしている。「用心棒」の撮影の時、中村歌右衛門と中村芝翫との三枚看板で歌舞伎座出演の話が来た。大御所との共演に飛びついた山田だが、黒澤に呼ばれてこう言われたという。「まだ、『用心棒』のアフレコが残っているから、芝居の初日は休んでください」と。山田はそんなことはできないと泣いて頼んだがだめだった。結局、舞台は諦めてアフレコを行う。その時、映画出演をやめる決心をしたという(川本三郎『君美わしく 戦後日本映画女優讃』文藝春秋)。

「蜘蛛巣城」の蜜月ぶりから一転、黒澤と袂を分かつことになる。山田は後に和解したと言っているが、この時期に舞台女優として生きていくと決心したのは、間違いないだろう。

娘・瑳峨三智子

 山田は自分と同じ女優の道に進んだ娘に、どんな思いがあったのだろうか。

 美智子は1952(昭和27)年、嵯峨美智子(後に瑳峨三智子)の名でデビューする。親友の女優・清川虹子の仲介で、山田は美智子に会った。清川は「十何年ぶりかで会って、五十鈴は声をあげて泣いていたわよ。いつもいつも心配してたのよ」と証言している(升本喜年『紫陽花や山田五十鈴という女優』草思社)。

 瑳峨はデビュー後、女優として順調に歩んでいた。しかし、結婚生活は長く続かず、薬物使用や金銭トラブルの噂が流れるなど私生活は荒れていた。その美貌は母親以上、妖艶な雰囲気は山田には無いものと大きく期待されていたのだが、しだいに出演依頼は来なくなった。

 瑳峨が芸能界から消息を絶って4年後の1992年、旅行中のタイ・バンコクでくも膜下出血により急死したと報じられる。まだ、57歳だった。

 筆者は以前、山田五十鈴のマネージャーだった浅野喜枝氏に話を聞く機会があった。山田に頼まれ、バンコクで荼毘に付し遺骨を届けたという。「『よかった、よかった、ありがとう』と言われました。三智子は数々の恋愛やトラブルがありましたが、それは母親のようになりたいという結果です。楽屋ではいつも『五十鈴先生、なんて言ってた?』と気にしていました」と回想している。

「東京暮色」の母と山田五十鈴

 山田と瑳峨の親子関係は、他人には窺い知れないものがあったのだろう。ただ、女優として歩みながら常に心の底に娘の存在があったに違いない。そこには娘の死を聞かされた時の「東京暮色」の母親の姿が重なる。

 山田は瑳峨の亡くなった10年後に脳梗塞で倒れ、それ以降舞台に立つこともなかった。復帰を目指していた時期もあったが2012(平成24)年、95歳で亡くなる。一女優として生涯を全うした人だった。

稲森浩介(いなもり・こうすけ)
映画解説者。出版社勤務時代は映画雑誌などを編集

デイリー新潮編集部

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