左翼的発言で物議、一人娘がタイで客死、日本映画屈指の名作に出演…大女優「山田五十鈴」の光と影【昭和女優ものがたり】

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「人民女優」といわれて

 戦争が終結し各地で労働運動が盛んになるなか、山田は東宝を辞めてその後フリーとなる。

 1950(昭和25)年、共産党員だった俳優の加藤嘉と結婚する。加藤に影響された山田は、左翼系独立プロの作品に積極的に出演した。当時、山田のようなスター女優がこうした作品に出ることはなかった。そこには、地を這うような人間たちを表現しようとする姿があり、世間からは「人民女優」と呼ばれる。

 この頃、その左翼的言動で東宝と大映では出演ができなくなっていた山田は、黒澤明監督に出演を希望する手紙を書いたという(「日本映画俳優全集・女優編」キネマ旬報社)。1954(昭和29)年には加藤と離婚して、俳優の下元勉と4度目となる最後の結婚をする。

円熟期を迎え、女優の頂点へ

 この時期は山田の低迷期だったのかもしれない。しかし、まもなく映画女優の頂点を迎えるための熱情を育んでいた。

 1956(昭和31)年に成瀬巳喜男監督の「流れる」に出演する。浅草柳橋の芸者置屋が舞台で、山田は凋落する店の女将役だ。この時の艶やかな演技で、ブルーリボン賞と毎日コンクールの主演女優賞を受賞した。

 快進撃はさらに続く。翌1957年、黒澤明作品「蜘蛛巣城」に出演が決まったのだ。シェークスピアの「マクベス」を翻案し能の様式を取り入れた本作で、山田は蜘蛛巣城主(三船敏郎)の妻を演じた。最後に気がおかしくなり、何度も手を洗いながら「血が取れない」という鬼気迫る演技は高い評価を得る。黒澤からテストなしでやると言われた山田は、一晩中洗面器で練習したという。

 この場面を、黒澤組の記録係・野上照代はこう証言している。「監督の『カット! いいね、よかった!』という声に、山田は嬉しそうに『本当? よかった!』と黒澤さんを見上げて、華やかに笑った」。(「キネマ旬報」2012年10月上旬号)。完璧主義者・黒澤が絶賛する女優となった瞬間だった。

初めて小津安二郎作品へ出演

 そしてついに、小津安二郎監督作品「東京暮色」(1957年)にも出演を果たす。

 かつて夫の部下と出奔し娘たちを捨てた母(山田五十鈴)は、麻雀屋を営んでいる。母は2人の娘(姉・原節子、妹・有馬稲子)に屈託なく接しようとするが、娘たちはそっけない態度で相対する。妹は恋人との子供を堕胎し、その後、電車に轢かれ亡くなってしまう。姉が来て「妹が死にました。お母さんのせいです」と冷たく言い放つ。

 この後の山田の演技が素晴らしい。麻雀屋を出て近くの居酒屋に入り熱燗を注文する。そして、涙を流すでもため息をつくでもなく、すっとお猪口を傾けるのだ。斎藤高順の明るいテンポの音楽が、より哀しみを誘う場面だ。

 本作は妻の不倫や娘の死などが描かれる陰鬱な話だ。評判も興行収入もよくなく、小津は「(キネマ旬報ランキングの)19位の監督だからね」と自嘲気味に言っていたそうだ。

 しかし、小津は山田の演じる母の存在を描きたかったのではないか。ようやく再会した子供があっけなく死んでしまう、そんな人間の悲しみを託したかったのだ。そして、山田はその期待に見事に応える最高の演技をしている。異論を承知で書けば、「山田五十鈴出演映画」のベストだと思う。

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