左翼的発言で物議、一人娘がタイで客死、日本映画屈指の名作に出演…大女優「山田五十鈴」の光と影【昭和女優ものがたり】
2026年2月5日、生誕109年を迎えた女優・山田五十鈴。溝口健二監督や黒澤明監督といった大監督に愛され、60年代からは舞台でも高い評価を受けた。1993年には大衆演劇の分野で森繁久彌に次ぐ2人目の文化功労者、2000年には女優初の文化勲章受章者に。他方、私生活ではひとり娘の嵯峨美智子(瑳峨三智子)が金銭や薬物のトラブルで巷をにぎわせ、果てはタイで客死――。大女優・山田五十鈴の光と影を映画解説者の稲森浩介氏が綴る。
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拙い演技で会社の「大貨物」
昭和の映画界で三大女優といえば、田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子の名があがることが多い。同じく舞台女優を3人あげるとすれば、初代・水谷八重子、杉村春子、山田五十鈴というのが、異論はないところだろう。
両方とも名が上がっている山田を、昭和の女優No.1と呼んでも良いかもしれない。ここでは山田の映画女優としての足跡を辿ってみたい。
山田は1917(大正6)年大阪で生まれた。父は新派俳優の山田九州男、母は売れっ子芸者で、幼い頃から清元、常磐津、長唄、踊りなどを習わされたという。1930(昭和5)年、父の紹介で日活太秦撮影所に入所し、「剣を越えて」でデビューする。まだ13歳だった。
山田の身長は160センチを超えていた。今ではそれほどでもないが、当時は大柄だった。だからであろうか、拙い演技が会社のお荷物という意味も含めて「大貨物」などというあだ名がついていた。
溝口健二、成瀬巳喜男との出会い
やがて、山田の名を轟かすことになる監督と出会う。溝口健二だ。「浪華悲歌」(1936年)と「祇園の姉妹」(1936年)で、山田の演技が大きく評価されたのだ。
「浪華悲歌」は、会社の交換手が家族の生活が苦しいために、社長の愛人や美人局のようなことをして世を渡っていく物語。「祇園の姉妹」は昔気質の姉と違い、男たちをうまく操り生きていく芸者という役だ。両作とも最後は社会の論理に押し潰される女性の悲哀を描き、前者はキネマ旬報の1936年度ベストテン3位、後者は1位に輝いた。
山田はこの撮影前に出産をしていた。俳優の月田一郎と結ばれ、1935(昭和10)年に女児を出産し美智子と名づける。後の女優・瑳峨三智子だ。山田は、出産後に仕事を辞めるつもりだったが「『浪華悲歌』の主人公に夢中で取り組んでいるうちに、女優を捨てることはできない、一生女優に徹していくほかない」と決意したことを語っている(津田類『聞き書き 女優山田五十鈴』平凡社)。
1938年には東宝へ移籍。そこには名監督・成瀬巳喜男がいた。出演した「鶴八鶴次郎」(1938年)、「歌行燈」(1943年)、「芝居道」(1944年)はいわゆる芸道物で、幼い時から数々の芸修行をしてきた山田にとってはまり役だ。うりざね顔にキリッとした目元の山田に、芸人や粋筋をやらせたら右に出るものはいなかった。
1942(昭和17)年に月田と離婚し、美智子とも別れることになる。離婚の翌年にはプロデューサーの滝村和男と結婚するが、1年で別れている。この頃から“恋多き女”と騒がれるようになっていた。
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