円安と金利上昇で「日本」は兵糧攻め状態 秀吉の「干殺し」「飢え殺し」に学ぶべき教訓
食糧が断たれた人間の惨状
今年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、羽柴秀吉の兵糧攻めが描かれるだろう。代表例の1つは「三木の干殺し」とも呼ばれた三木城(兵庫県三木市)攻め、もう1つは「鳥取の飢え殺し(渇え殺し)」と呼ばれた鳥取城(鳥取市)攻めである。
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『豊臣兄弟!』の主人公、秀吉の弟の秀長も参戦したこれらの戦いは、意外にも令和の私たちに、高市政権下でいま総選挙を迎えようとしている私たちに、大きな教訓をあたえてくれる。どんなに防衛力を固めても、食糧を絶たれたらおしまいだ、という教訓である。
天正6年(1578)3月、秀吉が播磨(兵庫県南西部)を攻略中に、それまで織田信長方だった別所長治が反旗を翻し、三木城に籠城した。城内には約7,500人が集まったという。これを受けて秀吉は三木城攻めに注力し、徹底的に包囲する作戦に出た。まず城下町を焼き払い、三木城周辺で長治にくみしている城を一つひとつ攻め落としつつ、60もの付城(敵城を攻撃するための臨時の前線基地)築き、1年あまりかけて三木城をすっかり取り囲んだ。
その結果、別所長治は兵糧の搬入が困難になった。毛利氏に兵糧を運んでほしいと要請しても、搬入ルートは付城で塞がれており、三木城は事実上孤立した。次第に城内の食糧は枯渇し、兵士たちは馬のエサや糠を食べ、それらが無くなると牛馬や犬を食べ、それも無くなると餓死した人の肉を食らったという。数千人が餓死し、天正8年1月、城兵の命と引き換えに長治は切腹した(だが、秀吉は城兵も助けなかったと伝わる)。
三木城を落として播磨を平定した秀吉は、続いて因幡(鳥取県東部)の計略に取りかかった。秀吉は天正8年(1580)6月、山名豊国が立てこもる鳥取城を攻めて降伏させた。ところが、豊国の家臣団は信長への従属に納得せず、毛利方につくことを選んで豊国を追い出してしまった。こうして毛利家家臣の吉川経家が入城すると、天正9年(1581)6月、秀吉はふたたび鳥取に進軍した。
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