「NHKのど自慢」原点のラジオ“第1回大会”から80年 「合格者第1号」がデビューの誘いを蹴った納得の理由「ぼくはそんなのイヤだしね」
地元の合唱団でコーラスを
優勝賞品は「5球スーパーラジオ」(真空管が5本のラジオ、当時の一般的普及型)とカップ。ラジオはすぐに使いものにならなくなり、カップも今ではサビが出ているが、羽鳥さんはこの賞品を現在でも大事にしまっている。
「おかしかったのは、上質の和紙に水引をかけた包み紙をいただき、みんなが金一封だというんで内心喜んだんです。お金が少しでも欲しい時代ですから喜び勇んで開けたんですが、写真一葉を後で差し上げるという目録だったんですよ」
羽鳥さんはプロの道に進むつもりはなく、現在は保谷市の団地でご主人と娘さんの3人暮らし。司法書士事務所に勤めるかたわら、地元の合唱団でコーラスを楽しんでいる。
レコード会社の誘いを断ってアマ活動
歌曲部門で優勝した岩本忠さん(65)は、当時、音楽出版社に勤めるかたわら歌曲の勉強をしていた。優勝曲はシューベルトの「汝れこそ我憩い(君こそわが憩い)」。
「日本一になったあと、コロムビアから歌謡曲を歌わないかという誘いはありましたが、歌い方が違いますからね、断わりました。ただ、勤めのかたわら、アマチュアとして活動しました。芸大の人たちと8人のダブルカルテットを結成し、フランス民謡やロシア民謡を持って全国の労音をずいぶん回りました。日本中を回る生活が5、6年続きましたかねえ。でも、ぼくも妻子持ちだし、だんだん生活の方に時間をとられるようになっちゃいましたよ。本当はもっとやりたかったのですが、何といったって、道楽の延長のようなもんですからねぇ」
昭和40(1965)年には音楽出版社もやめた。
「小さな商社で石油販売の営業マンになりました。あのころはまだ気楽に転職できる時代でしたからね。そして、独立して、今の会社を作ったのが昭和48(1973)年。4、5人しかいない小さな会社ですが、石油の販売をしています」
歌う楽しみは、最近ではやはりカラオケになるんだそうで、
「ぼくはバスだから低音の歌手の歌が合いますね。フランク永井の『有楽町で逢いましょう』や、『赤いグラス』とか……」
かつての歌曲部門初優勝歌手も、今では歌謡曲派に転向したらしい。
日本一になって人生が変わってしまった
民謡の部門で全国初優勝した和田ツネさんは、関係者の間でも消息がわからない。前出の三枝元プロデューサーも、
「横浜の大工の奥さんで『博多節』を歌って優勝したんですが、その後、夫婦別れをし、三味線をひいて門付け(家の門前で芸を披露すること)をしていたようですが……」
その後の生き方も様々な第1回「素人のど自慢」の優勝者。第1回の全国大会以来の優勝者の会「のど自慢日本一の会」の世話役をつとめる橋本迪弘さん(47)は、ご当人も昭和36年の歌謡曲部門の優勝者だが、
「ぼく自身、日本一になって人生が変わってしまった方ですね。当時は愛媛大の学生で、ゆくゆくは親父のあとを継いでローカル紙の社長になるはずだったんです。が、日本一になって歌手を目指してしまった……しかし、そうはうまくいきません。今は、昼はサラリーマン、夜はクラブでピアノ弾きという生活ですよ」
とはいえ「日本一の会」の方はなかなかの盛況のようで、毎年3月21日には、羽鳥、岩本の第1回優勝者をはじめ、消息のわかっている60名ほどのかつての“日本一”たちが、入れかわり立ちかわり参加し、自慢ののどを披露し、思い出話にふけるのだという。
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