【豊臣兄弟!】秀吉と秀長の「二人三脚」はいかに異例だったか 織田家の兄弟とは大違い

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痛ましすぎる兄弟対立の理由

 続いては信長の息子たちである。天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で信長と嫡男の信忠が殺され、謀反を起こした明智光秀が討たれると、その後の織田政権の運営をめぐって清須会議が開かれた。後継者は数え3歳とはいえ、信忠の嫡男で織田家直系の三法師と決まっていた。では、三法師が成人するまで、信長の次男の信雄と三男の信孝のどちらが暫定的な当主を務めるか。それが争点になったが、信雄は長男に次ぐ次男であることを根拠に、信孝は自分が秀吉と一緒に明智軍と戦ったことを根拠に、まったく譲り合おうとしなかった。

 このため政権は、柴田勝家、秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4人の話し合いで運営することに決まった。

 だが、その後、信孝は合議を得ずに政権を運営する秀吉に反発し、同様の反感をいだいていた柴田勝家と組んで、秀吉との関係を悪化させる。これを受けて秀吉は、三法師の名代としての当主の座に信雄を据える。

 織田家の宿老たちが、対立する信長の遺児たちを巻きこんで争った結果、行き着いた先が、天正11年(1583)4月21日の賤ケ岳合戦で、秀吉は勝家に勝利すると、そのまま居城の北庄城(福井市)を攻め、勝家を自刃させた。

 この戦いにはまだ先があった。秀吉が勝家に勝利したのを受け、信雄は弟の信孝の領国である美濃(岐阜県南部)に向かい、信孝を岐阜城(岐阜市)に攻めた。そして、信雄は弟を尾張国内海(愛知県美浜町)の大御堂寺に連れていき、信孝はそこで自刃するのである。

 織田家は信長も、その息子たちも、なんとも痛ましい兄弟の対立で、秀吉と秀長の兄弟とはまったく違う。最初から在地の領主だった信長は、親類や家臣が多く、「持てる立場」であっただけに対立が生じやすかった。一方、農民出身の秀吉には家臣がおらず、家族も親族も少ない。かぎられた親類衆に頼るしかなかった。その親類が優秀であれば、なおさらだったということだろう。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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