【豊臣兄弟!】秀吉と秀長の「二人三脚」はいかに異例だったか 織田家の兄弟とは大違い

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兄の藤吉郎に誘われて侍に

 尾張国(愛知県西部)の中村(名古屋市中村区)で、母や姉妹とともに農作業に勤しんでいた小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)は、第二回「願いの鐘」(1月11日放送)で、侍になる決意を固めた。

 8年ぶりに中村に戻った兄の藤吉郎(池松壮亮、のちの羽柴秀吉)から、織田信長(小栗旬)の居城がある清洲(愛知県清須市)に来て侍になるように誘われても、小一郎は断っていた。しかし、家族と一緒に住む村が野盗や野武士集団に蹂躙され、村人たちが虫けらのように殺されるのを目の当たりにして、決意を固めた。

 藤吉郎に「行こう、わしと一緒に。侍になれ、小一郎!」と声をかけられ、故郷の村を離れて、清洲に向かったのである。第三回(1月18日放送)のサブタイトルは「決戦前夜」で、「決戦」とは永禄3年(1560)5月19日に信長が今川義元(大鶴義丹)を討った桶狭間合戦を指すから、その少し前の時期ということになる。

 秀長は天文9年(1540)3月2日に生まれた可能性が高く、兄の秀吉の3歳年下で、桶狭間合戦当時は満20歳だった。中村の地を離れて信長に仕えたのがいつなのか、史料からはわからないが、秀吉の動きが史料で確認できるようになる永禄8年(1565)より以前だと考えられており、「豊臣兄弟!」で描かれたころだったとしても不思議ではない。

 そして、この兄弟がすごいのは、天正19年(1591)1月22日に秀長が死去するまで、基本的に二人三脚を続けることができた点である。

弟の秀長に全幅の信頼を寄せた秀吉

 秀長は当初は「長秀」と名乗り、その名が史料にはじめて見えるのは天正元年(1573)8月のこと。「木下小一郎」という署名の下に「長秀」という花押が書かれている。そのころ秀吉はすでに苗字を「羽柴」に改めていたが、秀長は「木下」を名乗っている。また、史料から、秀吉との別行動が多く見受けられるので、当初は秀吉の家臣ではなく、信長の直臣だったと思われる。

 だが、天正3年(1575)11月には「羽小一郎長秀」という署名が見られ、以後はおおむね秀吉と行動を共にしている。羽柴一門衆の筆頭として、秀吉の右腕になったようだ。天正5年(1577)にはじまった中国地方での毛利との戦いでは、秀吉の本軍とは別の軍を率いて兄の代行者の役割を務めるなど、秀吉はこの弟に全幅の信頼を寄せるようになった。

天正7年(1579)に秀吉は、黒田孝高を激賞して手紙を送っている。そこには「我らおとゝの小一郎めとうせん(自分の弟の小一郎同然だ)」という表現があり、そこからも秀吉が秀長をいかに高く評価していたかがわかる。

 秀長の優秀さは、天正10年(1582)6月2日に主君の信長が討たれてから、いっそう際立った。重要局面で秀吉の名代を務めるのは決まって秀長で、天正13年(1585)の四国出兵では、四国に渡らなかった秀吉に代わって総大将を務め、同15年(1587)の九州平定では、秀吉と別動隊の総勢10万の軍勢を率いて、島津氏の両国へ進攻した。

 また、こうして従わせた長宗我部氏や島津氏をはじめ、それまで対立していた大名を羽柴政権に従属させる「取次」、および従属状態を維持するための「指南」という役割は、ほとんど秀長に集中した。かつての主君の織田信雄も、徳川家康も、秀長の力で羽柴政権につなぎ止められた、といっても過言ではない。

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