【豊臣兄弟!】秀吉と秀長の「二人三脚」はいかに異例だったか 織田家の兄弟とは大違い

国内 社会

  • ブックマーク

弟を呼び出して謀殺した信長

 秀吉と秀長兄弟に、対立する場面が皆無だったわけではない。たとえば天正16年(1588)末、秀長の家臣の吉川平助による、熊野の材木の不正売買が発覚すると、秀吉は吉川を処刑し、秀長もしばらく秀吉に対面できなくなった。だが、翌年1月中には対面が叶っている。多少の亀裂は生じても、関係修復は早かった。

 だが、こうした兄弟関係は、戦国の世においてはむしろ異例だった。試みに、織田信長の兄弟関係を見てみよう。信長は桶狭間合戦の少し前に、血のつながった、母親も一緒の弟に対して、重大な決断を下していた。

 天文21年(1552)3月、父の信秀が病死すると、信長が家督を継いだ。しかし、それ以前から、織田弾正忠家(織田の本家筋は大和守家で、弾正忠家は庶家だった)の内部には不穏な動きがあった。信長の弟の信成(諱は信勝、達成、信成と変化するが、ここでは信成に統一する)が台頭し、末森城(名古屋市千種区)を中心に、一定の統治権を発揮していたのである。 

 家臣団のあいだでも信長と信成をともに立てる体制がとられ、信長が家督を相続してもそれは変わらず、信成は末森城主として周囲の統治を続けた。この状況は、周囲からは織田弾正忠家の内部がバラバラのように映っただろう。

 そのころ、鳴海城(名古屋市緑区)を中心とした鳴海領は、今川義元と織田弾正忠家との境目(複数の大名勢力に挟まれ帰属はあいまいで、常に争いの対象になった地域)で、そのころは鳴海領に勢力をもつ国衆(有力な在地領主)の山口氏が仲裁して、義元と織田家は和睦していた。ところが、山口氏がすっかり今川方に付いてしまったのである。

 織田弾正忠家内の兄弟対立は、周囲から見れば「付け入る隙」だったということだ。結果として、今川勢はどんどん尾張に侵攻するようになり、ついには主家の織田大和守家も信長に敵対する。

 そこで信長は織田大和守を討ち滅ぼすが、今度は弟の信成と彼を担ぐ家臣たち、さらには織田伊勢守家が、信長とあからさまに敵対する。弘治2年(1556)8月には、信長と信成は稲生(名古屋市西区)で戦い、敗北した信成はいったん信長に従順の意を示したものの、結局、対立は解消されなかった。

 ついに信長は、永禄元年(1558)11月2日、清洲城に信成を呼び出したうえで、謀殺している。

 ちなみに、こうして付け入る隙を見せてしまったため、今川義元の尾張、とりわけ鳴海領への攻勢が激しくなり、ついに義元自身が大軍を率いて尾張に侵攻し、桶狭間合戦へと発展した。

次ページ:痛ましすぎる兄弟対立の理由

前へ 1 2 3 次へ

[2/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。