引退した「棚橋弘至」もあこがれた「新日本のレジェンド」 72歳にして衰え知らずの“飛龍伝説”を振り返る 「バレンタインにトラック2台分のチョコ」が届いた過去も

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「やればいい」と言った猪木の涙

 1980年6月27日、当時、ジュニアのタイトルを2つ保持していた藤波は、相手選手の凶器攻撃を受け止めた際、右手薬指を骨折。以降、完治の見えぬ欠場となり、先ず5日後の7月2日、防衛戦が予定されていたNWAインタージュニア王座を返上した。そしてそこから約半月後の7月17日、これまた防衛戦が予定されていたWWF認定ジュニアヘビー王座も返上することに。ところが、右手に包帯を巻き、私服姿でリングに上がった藤波は、マイクを取った。

「試合をさせて下さい!」

 目から涙が溢れている。ざわめく場内。戸惑うリング上の新間寿営業本部長。「負けてもいい」「でも手の怪我が」「何もせずに終わりたくない」の押し問答。この日ベルトに挑戦する予定だった選手のキース・ハートも怪訝な顔をしている。遂にメインでタイガー・ジェット・シンと戦う予定の猪木も、試合を諦めさせるため、説得に登場。しかし、激しく思いを訴える藤波に、断を下した。

「やればいい」

 訳知り顔で振り返るファンもいると思う。「怪我で欠場と思わせて実際は出させるなんて、新日本らしい。本当は治ってたんじゃないのか」、もしくは「ハプニングを仕掛けるなんて、猪木らしい」と。当時の新日本が全日本に比べ、予期せぬ事態の演出に長けていたのも事実であった。だが、そうとも言い切れない光景が直後に見られた。

 試合を許可したはずの猪木の目からも、大粒の涙が溢れたのだ。

 藤波が猪木について語る時、よく出す逸話がある。1972年11月、デビュー2戦目の藤原喜明と前座を戦った時だ。試合は藤原の勘の良さもあり、流麗な技の応酬となった。その瞬間である。

 猪木が乱入して来た。前座で、試合中なのにである。手には竹刀を持っていた。2人は、竹刀で滅多打ちにされた。

「お前ら、10年早い!」

 控え室で、猪木は2人に説いた。

「技で沸かせるようなレスラーになって欲しくない。闘志さえあれば、お客は沸かせられるんだ。俺達は、気持ちをファンに見て貰うんだ!」

 防衛戦に臨んだ藤波だが、右手が利かず、バックが取れない。相手のハートの手もつかめない。必死にカニバサミで相手を倒し、左手で腰投げを決めるがあっという間に劣勢に。だが、ことごとくカウント2で返す。派手な攻防など、あるわけがない。だが、観客の声援には、いつも以上の熱さがこもった。

「藤波!」「ドラゴン!」「頑張れ!」

 ハートがロープに振って、ショルダースルーを狙う。瞬間、その胸を蹴り上げた藤波はハートをスモール・パッケージ・ホールド。3カウントを取り終えた藤波の目には、再び、涙があった。文字通り、気持ちで掴んだ勝利に、試合後、こう語っている。

「許可してくれた猪木さんに感謝してます。猪木さんの涙、初めて見ました。その涙に応えることが出来て、本当に嬉しい……」

 猪木は2022年10月1日、逝去。その翌日、棺の中の遺体と対面した藤波は、関係者にお願いをした。

「(猪木の)頭を触らせて貰ってもいいですか?」

 直後の囲み取材に、こう答えた。

「付け人の時の、頭を洗ったのが思い出されてね……。そうそう、こんな頭の形だったなあって……」

 そして、現役にこだわる理由を、こう明かした。

「(新弟子時代の)猪木さんの『頑張れよ』の一言が、自分をここまでリングに上げてくれているんです。僕が現役にこだわる理由も、そういうところですから」

 藤波が闘志を胸に現役を続ける限り、猪木もまた、その心の中で、永遠に熱く、生き続ける。

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。早稲田大学政治経済学部卒。フジテレビ「カルトQ~プロレス大会」の優勝を遠因に取材&執筆活動へ。現在、約1年ぶりの新著『10.9 プロレスのいちばん熱い日 新日本プロレスvsUWFインターナショナル全面戦争 30年目の真実』(standards)が好評発売中。

デイリー新潮編集部

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