引退した「棚橋弘至」もあこがれた「新日本のレジェンド」 72歳にして衰え知らずの“飛龍伝説”を振り返る 「バレンタインにトラック2台分のチョコ」が届いた過去も

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伝説の「マッチョ・ドラゴン」

 同シングルは1985年11月1日発売だが、同年9月19日、猪木との一騎打ちの入場で初めて流された入場曲でもあった。

〈八月中旬に行われたレコーディングは九時間にもおよんだ〉(東京スポーツ、1985年9月20日付)という事前情報から予感はあったが、藤波の歌唱の調子がかなり奔放かつ、外れており、早くから深夜のラジオなどでは話題になる。1999年にはCD音源も手に入るところとなり、一種のカルト曲として浸透。前出のNHKの番組でも特集されるに至ったわけである。因みに、2023年11月にはドーナツ盤が復刻発売され、2024年6月には、同シングルのジャケットで藤波が着ている衣装をデザインしたTシャツまで発売されている。

 10年ほど前、プロレスラーの中でも歌唱力でトップクラスとされる木村健悟を直撃し、各選手がレコードやCDで発売した歌を聴いてもらい、品評してもらうという企画を立てたことがあった。木村は快諾。

「(初代)タイガー(マスク)は、試合でも自分に酔ってしまうタイプなんですよ。歌い方にもそれが出てますね」

「(ハルク・)ホーガンは、パフォーマンスの押しが強い。歌も一種のパフォーマンスとして捉えているフシがありますね」

 などと、やや辛口ながらもかなり的確な寸評を頂けたのだが、その木村の「マッチョ・ドラゴン」評は以下であった。

「何というか……彼はプロレス以外は、どこか幼稚なんだよね(苦笑)」

 ではプロレスは、と水を向けると、かつてのタッグパートナーでもある木村は、こう答えた。

「それはもう、素晴らしいの一言ですよ。天才的というかね」

「頑張れよ」と声をかけてくれた大先輩

 そもそもの運動歴は、中学時代の陸上競技しかなかった藤波。同じ大分県人である、プロレスラーの北沢幹之が地元に来たのを見計らい押し掛け入門したが、実績も体格もないゆえ、関係者の子どもかと間違える選手も多かった。無視されるのは日曜茶飯事で、まれに先輩にヒンズースクワットを命じられるも存在を忘れられ、8時間やり続けたことも。

 だが、「頑張れよ」と、ことあるごとに声をかけてくれたトップレスラーもいた。それが猪木だった。先に触れた北沢が猪木の付け人だったこともあったが、もともと藤波自身も猪木ファンであり、近くで見るその人間性に急速に魅了されて行く。

 試合前の長時間にわたる猛練習で他の選手を呆れさせる姿。移動の際、多勢のレスラーがルーズなTシャツやジャージ姿の中、キチンとスーツを着込む心構え。北沢の後に付け人を務める栄誉にも浴し、入浴中には洗髪も自分が担当した。当時の猪木はシングルではUNヘビー級を持ち、タッグではジャイアント馬場とのBI砲でインターナショナルタッグ王座を保持する売れっ子の時期だった。しかし、傲慢さはなく、理不尽な仕打ちなども無かったという。

 1971年末に日本プロレスを離れ、翌年3月、新日本プロレスを旗揚げする猪木に、藤波がついて行ったのは自明の理だった。いざ、猪木の自宅まで行き着けば、立派だったはずの庭が更地となっていた。先ず、道場を建てるのだ。無類の練習好きの藤波にとっては、これまた願ったり叶ったりの環境だった。

 日々の鍛錬が、ここまでの藤波の現役生活を支えているのは間違いない。本人も60を超えた際のインタビュー時、「僕は試合をしてないと、むしろ体調が悪くてね」と語っていた。気付けばドラゴン・スープレックス、ドラゴン・スクリュー、ドラゴン・スリーパーと、プロレス界に残した技も多く、藤波との一連の抗争でブレイクした長州力には「彼がいなければ、今の俺はいない」と言わしめ、第一次UWFを経て闘った前田日明には、「無人島に仲間がいた」と言わしめた(「デイリー新潮」2024年7月7日配信参照)。海外でもグッド・レスラーと評価は高い。

 唯一の長期欠場(1年3ヵ月)は、腰の怪我によるもの。宿敵ビッグバン・ベイダーをバックドロップで投げた際、神経の一部が切れたものだが(1989年6月22日)、にもかかわらず、藤波はすぐには欠場せず、以降、数試合を戦ったことで患部をよりくしてしまっていた。しかし、当時のファンなら、藤波の気持ちを慮るのは造作なかったはずだ。この時期のシリーズより、猪木が参院選出馬のため、欠場していたのである。藤波自身の、「猪木さんに心配をかけぬよう、自分たちがより頑張らねばという気持ちで一杯だった」という回顧が残っている。時に藤波を鼓舞させ、躊躇もさせてきたもの。それがこの“猪木愛”、そして“新日本プロレス愛”だった。

 相手を失神させたことにより、1980年、自ら禁じ手としたドラゴン・スープレックスを約4年半後、突然、繰り出したことがあった(1984年11月30日。猪木、藤波vsストロング・マシン1号&2号)。後年、この時の思いについて伺うと、この年の9月に長州力ら、人気選手がライバル団体の全日本プロレスを視野に大量離脱したことに触れ、「なんとか印象や強さを残さないと」という気持ちだったという。翌年9月の猪木との一騎打ちは黄金カードかつ極上の名勝負を展開しながら会場の東京体育館が満員にならなかった。されど、翌日の紙面には力強い藤波の手記が残る。

〈この数年いろいろあった。何人ものレスラーが離れていった。(中略)だが、今自分は自信を持っていうことが出来る。これだけの試合は新日本のリングだから出来るのだ〉(東京スポーツ、1985年9月21日付)

 一方で、同試合で4の字固めを極めた際、「(足を)折ってみろ!」と猪木が過激に何度も挑発するも攻め切れず、試合後、涙を流しながらこうマスコミに口にしたのも語り草だ。

「考えてみて下さい。今、俺が猪木さんの足を折ったら、新日本プロレスはどうなってしまうか……」

 だが、そんな藤波が、試合出場について、猪木の忠告を聞かなかったことがあった。

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