引退した「棚橋弘至」もあこがれた「新日本のレジェンド」 72歳にして衰え知らずの“飛龍伝説”を振り返る 「バレンタインにトラック2台分のチョコ」が届いた過去も

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 2026年1月4日にプロレスラー、棚橋弘至が引退したが、その引退セレモニーで、観客が大きく沸いたシーンがあった。来賓として紹介された藤波辰爾が、棚橋をねぎらったのである。引退する棚橋が49歳なのに対して、藤波は御年72歳。未だに現役であり、昨年12月の誕生日にはSNS上で黒ショートタイツ姿の衰えぬ肉体を披露し、話題となったばかりである。古希を越えてもリングに上がり続けるレジェンドの真意は? 輝かしい経歴とともに辿りたい。

ドラゴン・ブーム

 藤波辰爾は1953年、大分県生まれ。1970年に日本プロレスに入門し、翌年、プロデビュー。その後、1972年に旗揚げした新日本プロレスに参じた。

 転機となったのは1978年1月。海外修業中のニューヨークのMSG(マディソン・スクエア・ガーデン)において、オリジナル・ホールドである「ドラゴン・スープレックス」を初披露してWWWF(現WWE)認定のジュニアヘビー級王座を奪取。同年3月に凱旋帰国すると、日本中に伝説の“ドラゴン・ブーム”を巻き起こしたのである。

 それまで、ヘビー級の添え物としか捉えられていなかった「ジュニアヘビー級」というジャンルを、プロレス興行の一つの核にまで押し上げた功績は、余りに大きい。極論すれば、それだけ藤波が人気者だったということになる。事実、藤波の登場は、プロレス会場に来る客層を、大きく変えた。

〈西城秀樹と角川博をプラスして2で割ったような甘いマスク〉

 凱旋帰国から2年半後の、藤波を紹介する女性誌の記事である(「週刊女性」1979年10月16日号)。

 そう、女性ファンが大幅に増えたのである。同誌の内容は、以降もこう続く。

〈とにかく彼の姿があるところには、いつも百人ほどの若い女性の親衛隊的なファンがついて回る〉

〈ファンクラブも発足した。千五百人の会員も男性と女性が約半数ずつというのも、プロレスラーとしては珍しい〉

〈「血を流している姿を見ると、わたし、リングに駆け上がって手当てをしてやりたくなるの」(高校三年生)〉

〈「タツミが反則でやられそうになると、全身がジーンとしちゃって……」(十九才のOL)〉 

 以前、筆者がインタビューした際、本人はこの時期をこう振り返っていた。

「あの頃はねえ。バレンタインのチョコレートが、トラックに2台分届いたんだよ、信じないでしょ? ウチの娘だって信じないんだから(笑)」

 1981年12月、結婚。妻の伽織さんは「今まで、どんな占いをしても、“最高の相性”としか言われて来ていない」と、夫との関係を嬉し気に語っている。新宿・京王プラザにおける披露宴ではリングが設置され、前代未聞の“披露宴プロレス”が開催されたのも、そんな妻の理解があってのことだろう(エキシビションとして藤波vs仲野信市など)。

 一方で、夫婦で「オールスター家族対抗歌合戦」(フジテレビ。1984年10月14日放送分)に出演した際には、審査員として列席していた猪木から、「藤波クンには“ざぶとん”というアダ名がありましてね。尻にしかれているというか……(笑)」と明かされる一幕も。そういえば2015年、藤波の個人事務所が入る東京・青山のマンション下で取材のために待っていると、当の藤波自身が外から現れたことがあった。見ると、ラップされた巨大なトレー2つに、生肉がたっぷりと載っている。

「いやあ、すいません。急に女房に買って来いと言われましてね。これ、僕1人で食べるんじゃないですよ!(笑)」

 屈託なき満面のドラゴン・スマイルに、当時、真珠婚(※結婚30年)を超えた、羨望の夫婦仲を感じたものである。そんな円満夫婦の2人ながら、近年、伽織さんが藤波に苦言を呈したことがあった。それも、NHKの番組上で、である。曰く。

「もう少し上手く歌えると思ったんですが……」(NHK「1オクターブ上の音楽会」。2022年9月10日放送分)

 これまた伝説となっている、本人歌唱のシングル「マッチョ・ドラゴン」についてであった。

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