【豊臣兄弟!】信長の評価は兄の秀吉より高かった? 豊臣政権を支えた「羽柴秀長」の圧倒的能力の中身
秀吉より評価が高かった可能性
では、秀吉が天下一統を進めるなかで、秀長は具体的に、どのような働きをしたのだろうか。兄弟の出身は『豊臣兄弟!』の第1回「二匹の猿」(1月4日放送)で描写されるように、尾張国(愛知県西部)愛智郡中々村(名古屋市中村区)の農家で、織田家に在村被官していた父親の死後、かなり貧しい生活を送っていたようだ。そして、2人とも織田信長に仕えるのだが、当初から秀長が秀吉の配下にいたわけではない。
秀長の武将としての活躍が最初に確認できる史料は、『信長公記』の天正2年(1574)7月13日の条で、それによると、信長の伊勢(三重県東部)長島の一向一揆に対する決戦に際し、秀長は中央軍の先陣を務めている。だが、そこには秀吉の名はない。すると、秀長は信長に直属する家臣であった可能性が高く、そうであれば、これまで考えられていたように、弟が兄によって引き立てられた、という見方は誤りだということになる。重要な決戦で重要な位置をまかされているのだから、秀吉より評価が高かった可能性も否定できない。
それだけの人物だったから秀吉も大事にし、頼ったのだろう。同じ『信長公記』の天正5年(1577)10月23日の条では、秀吉の中国地方戦線において、播磨(兵庫県南西部)の攻略に従軍している。このころには秀吉の配下で働いていたことになるが、その3カ月前、秀吉が黒田孝高(官兵衛)に宛てて書いた「小寺官兵衛宛自筆書状」には、「其方きハ、我らおとゝの小一郎めとうせんに心安く存候間(貴殿は、私の弟の小一郎(秀長)同然に心を許せる相手なので」という表現が見られる(「黒田家文書」)。
つまり、秀長は秀吉にとって、もっとも信頼できる人物として例示すべき存在だったということである。実際、とりわけ天正10年(1582)6月2日、主君の信長が本能寺で討たれてからは、秀長は八面六臂の活躍を続ける。
秀長が大名たちをつなぎ止めた
天正12年(1584)3月にはじまった小牧・長久手合戦が、結局、秀吉の勝利で幕を閉じると、同13年(1585)1月、秀吉のかつての主君である織田信雄は、大坂城に赴いて秀吉に臣従を誓った。このとき事前に秀吉の代理として信雄のもとに赴き、臣従するように説得したのは秀長だった。その後、信雄とともに秀吉に抵抗した家康も、前述のように臣従している。その際、大坂における家康の宿舎は秀長の屋敷だったが、それもやはり家康を説得したのが秀長だったからだと考えられる。
このように秀長は、秀吉が天下一統を進めるなかで、各地の大名たちを秀吉の政権に従属させるように「取次」を果たし、従属させたのちは政治的および軍事的に支えて彼らが離れないようにする「指南」を務めたのである。
むろん、その対象は信雄と家康だけではない。天正13年(1585)6月からの四国出兵では、全軍の総大将を務めて長宗我部元親を降伏させ、土佐(高知県)一国の支配は認めたうえで、元親のその後の「指南」を務めている。秀長のそうした役割は、中国地方の毛利氏や前述の大友氏、天正15年(1587)の九州平定後の島津氏など、外様の大大名のほとんどを網羅するほど、広範囲におよんでいた。つまり、秀長が錚々たる外様大名たちを、秀吉のもとにつなぎ止めていたといえる。
また、築城や城郭の補修に関しても、秀長が活躍したという記録があり、戦術にも関わっていた。もしかすると、名手といわれた秀吉の築城術や、物量で相手を圧倒する戦術なども、オリジナルは秀長にあった可能性さえある。
本能寺の変後の天正10年(1582)6月27日、信長の後継を決めるために開かれた清洲会議は、秀吉の主導で織田家の人間は参加せず、秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興という織田政権における4人の宿老が牛耳った。そして、信長の次男の信雄と三男の信孝の仲は、その後、徹底的に切り裂かれた。これも秀吉が、兄弟が手を結んだときに発揮される力を認識していたからだ、と見たらうがちすぎだろうか。
そんな秀長は天正18年(1590)1月ごろから病気が悪化し、同年春からの小田原征伐には参加できず、翌天正19年(1591)1月22日に死去した。秀長が生きていれば、羽柴(豊臣)政権のその後は大きく違ったはずだ、あのような悲劇的な末路はたどらなかっただろう、というのは研究者の共通認識である。
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