【豊臣兄弟!】信長の評価は兄の秀吉より高かった? 豊臣政権を支えた「羽柴秀長」の圧倒的能力の中身

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菅元総理と似ている?

 菅義偉元総理がおもしろいことをいっている。

「政権を運営するのは、ものすごく大変です。秀吉の時代と同じく、いい事ばかりが続いていくわけではありません。予期せぬ事が次から次に起きたりもします。そのような際に、トップが一人で何から何まで解決策を出すのは難しい話で、常にトップの側にいてサポートしてくれる補佐役が必要です」

 そのように前提を述べたうえで、次のように語っている。

「官房長官時代、私はマスコミから秀長に重ねられることがありました。(中略)総理を支える女房役の面がある官房長官には、秀長のような補佐役に似た役割が求められます。省庁間にまたがる施策をしっかりと調整して国会で法案が通るようにしなければなりませんし、スポークスマンとして内閣の考えを内外に伝える役目もあります。要するに総理が十分に活躍できる環境を作っていくことが求められます」(『豊臣秀長 戦国最強のナンバー2のすべて』宝島社新書)

 菅元総理が語る「秀長」が、羽柴(豊臣)秀吉の弟で、2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公、仲野太賀が演じる羽柴(豊臣)秀長であるのはいうまでもない。そして、元総理による秀長の捉え方は、概してまちがっていないと思われる。結論を先にいってしまえば、秀吉が「天下一統」を推し進めるにあたり、秀長は自他ともに認める「補佐役」だった。

代わる者のない補佐役

 たとえば、天正14年(1586)4月、薩摩(鹿児島県西部)の島津家の攻勢に悲鳴を上げて、豊後(大分県)の大友義鎮(宗麟)が上坂し、秀吉に臣従したうえで軍事的な支援を願い出た際、あいだを取り持ったのは秀長だった。そして、「公儀の事は宰相存じ候、御為に悪しき事はこれ有るべからず候、弥いよ申し談ずべし(公儀=政治や軍事に関するような政権の表向きの案件には、秀長が通じているので、あなたにとって悪いことにはなりませんから、ますます話し合いましょう)」と、義鎮に伝えたという(『大友家文書録』)。

 ここからは、秀長が兄である秀吉の政治や軍事に関して、だれよりも通じていると自認したうえで、補佐役として、政権のために諸大名との関係維持に奔走しようとする、強烈な自負心が読みとれる。では、同じ時期に世間は秀長の立場をどのように理解していたのか。

 奈良の興福寺の塔頭、多聞院院主の長実房英俊は、『多聞院日記』の天正14年(1586)11月2日の条に、これから仏法が破滅して「一揆ノ世」が訪れるとして、そのときにどうなるかという人々の認識について、「秀吉ハ王ニナリ、宰相殿ハ関白ニナリ、家康ハ将軍ニナル」と書いている。つまり、政権の主宰者は変わらず秀吉だとして、関白として補佐するのは秀長で、家康は政権に従わない勢力を討伐する軍事的な指揮官だと見られていた、ということである。

 英俊がこのように書く直前の同年10月27日、徳川家康はようやく上坂し、大坂城で秀吉に謁見して臣従を誓っていた。そして、この日記が書かれた直後の11月5日、朝廷から正三位権中納言の官位を得ると、同時に秀長も同じ正三位権中納言になった。家康はこれに先立ち、秀吉(と秀長)の妹を娶り、秀吉の義理の弟になっていた。このように秀吉が2人の「弟」を同じ官位にしたことについて、柴裕之氏は「世間に対して、天下人秀吉を支える“弟”格に、家康と秀長がいることを示すねらいによろう」と記す(『秀吉と秀長』NHK出版新書)。

 だが、同格とはいっても、家康はあくまでも軍事指揮官で、秀吉を補佐するのは秀長だ、というのが世間の認識だったということである。それどころか、実際に政権を切り盛りするうえで重要なのは、王よりも関白なのだから、秀長こそが事実上、秀吉政権を動かしているという認識が、当時の世間にはあったのかもしれない。

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