「命を燃やし尽くすかのような下準備が見える」 三島由紀夫『仮面の告白』の天才的な論理力を現代文講師・宗慶二氏が徹底解説!
圧倒的な「語彙力」の背景に……
――語彙力についても具体的に教えてください。
圧倒的だと思います。例えば、代表作の一つである『仮面の告白』。難しい言葉を数多く使いこなしているのはさることながら、封筒一つを渡すシーンでも、最初は「西洋封筒」と普通に表現した後、同じ封筒を「女学生趣味の封筒」と言い換えたりする。言葉には意味だけでなく、香りや響きのようなものが確実にあります。三島は言葉の持つ音色のようなものを計算に入れて、まるで音符を配置するかのような音楽性で言葉を織りなすことができる達人なのです。
また、美しく柔らかいロマン風の表現と、硬い漢語的、男性的表現を使い分けていることも注目すべき点です。『仮面の告白』では、園子に対する描写は美しく柔らかい一方で、自分の心理分析になると「何事も享楽(きょうらく)しかねない奇妙な天分」「怯懦(きょうだ)」といった硬い表現に切り替わる。この計算された使い分けは、三島ならではの技法でしょう。
――どうやってこれだけの語彙力が培われたのでしょうか。
大量の読書歴に尽きると思います。三島の作品にも出てきますが、彼は現実世界の恋愛を読書の中で予行演習していました。この時代には、そういうやり方でしか生き方を学べなかった事情があります。男女はどういう会話をするべきなのか、恋愛感情とはいかなるものなのか、本から懸命に学ぼうとして読み漁っていたわけです。
しかし三島の場合、それは単なる知識欲ではなく、自分自身の同性愛的性向をひた隠しにするための、つまり仮面をかぶるためという切実さもあった。こうしてたくさんの書物を読む中で、自然に分厚い語彙が体得できたのでしょう。この圧倒的な語彙力は、裏を返せば、三島の生きてきた時間の苦痛そのものと比例しているように思うのです。
現代に三島が生きていたら
――現代のSNS時代の語彙力と、大きな対比を感じます。
SNS全盛の時代では語彙力そのものが乏しくなってきたように思います。文学的な表現を使うと誤読されてしまうことも多いですよね。例えば「無言の帰宅」という表現を使った人が、家族を亡くした悲痛な気持ちを遠回しに表現したのに、「帰ってきて良かったですね」と誤解されたケースがありました。
分からなければ仕方がないとも思う一方、問題なのは、そのSNSが炎上し、「死んで帰ってきたとはっきり書けばいいじゃないか」と逆に言い返されてしまったことです。分かりやすいものだけではなく、ある程度の歯ごたえのある文章を読みこなしていくことの喜び、知的な喜びというものがあることに気がつかないのは、非常に寂しいことです。
三島の文章に触れることは、緩んだ自分自身の日常にカンナをかけて、見えなかった地肌を見せるような感覚、「こんなことを語れる人がいるんだ」という驚きに出会うことなのではないでしょうか。
――もし現代に三島が生きていたら、『仮面の告白』は生まれなかったとも考えられるでしょうか。
時代そのものの圧力でプレスされ、息がつけないくらいに苦しめば苦しむほど、三島という“花火”は大きく美しく打ち上がったのでしょう。ギリギリまで圧を加えられた爆発物のように、鉄で固められたからこそ、とんでもない爆発力を持つ。そうした時代的制約の中でこそ生み出された、この美しい文学の価値を、現代の読者にも感じ取ってもらいたいと思います。
〈新潮社のYouTubeチャンネル「イノベーション読書」内の番組【三島由紀夫『仮面の告白』 天才的な論理力を読む(現代文講師 宗慶二)】では、『仮面の告白』から“至極の文章”を4か所厳選しながら、三島の論理力や語彙力、表現力などについて宗氏が解説している〉







