歌手「山本譲二」を奮い立たせた“オヤジ”の金言 「たとえ小便臭いところでも、人がひとりでもいたら歌ってこい」 北島ファミリーの秘話を振り返る
「前へ、前へ」
和田にも同じテーマで話を聞いた。山本始め、亡くなった小金沢もそうだが、とにかく北島ファミリーは酒豪が多い。だが和田は、師匠にも山本にも、自身が酒を飲むことを言っていなかった。
夜、車で師匠を八王子の北島邸まで送り届けて四谷のアパートに帰ってくる。だが、師匠との日々はプレッシャーもある。帰宅後は盛り場に繰り出しては深酒三昧。歯止めが利かず居酒屋でフルボトルを10本空けたこともあった。そのうち、青いはずの夏空が黄色に見えた。γ-GTPの数値が4800に跳ね上がり、緊急入院。アルコール性肝炎、B型肝炎で3カ月寝たきりに。
てっきり、師匠には怒られると思ったが、「お前、どうしたんだ」と絶句し、心配してくれたそうだ。
原田は北島に拾ってもらった恩を口にする。九州・天草生まれ。鹿児島大学で声楽を学び、横浜の小学校の先生をやっていたが、夢は歌手になること。「200万円でアルバムを出してやる」という詐欺話にひっかかりそうになったこともある。
そんな時に上京した母親と、新宿コマ劇場で「北島三郎特別公演」を見たことが人生を大きく変えた。感激した原田はカンツォーネ、シャンソン、八代亜紀の歌を吹き込んだデモテープを事務所に届けた。原田は言う。
「どこの誰ともわからない小学校の先生が吹き込んだ歌なんか、普通は見向きもされません。それを気にかけて『一緒に勉強しよう』と言ってもらえた。あの一言が私のすべてです」
内弟子を8年務め、北島の二女と結婚した北山たけしは北島三郎、山本譲二から一字ずつもらって「北山」になった。そして、のろま大将こと大江裕とのコンビには「北島兄弟」と名前をつけてもらった。平成最後の年となった18年、北島とともに紅白歌合戦に出場が叶った。歌った曲は「ブラザー」。師匠にアドバイスされたエピソードを教えてくれた。
「師匠は『前へ前へ』という言葉を口にする。後ろを向いてはダメだぞ」
大江はパニック障害に苦しんだ時期がある。そこから立ち直れたのはなぜか? 大江はこう語った。
「何があっても先生(北島)が守ってくれるという安心感が大きい。来るなら来てみろと思えるようになった」
その御大に時間を取っていただいたのは、17年の日本ダービーの時。馬主歴60年近い競馬界の超有名人でもある。名馬キタサンブラックのオーナーとして知られる北島が「日本ダービー」を語るという企画だった。
16年の年度代表馬で、史上4頭目となる天皇賞の春連覇を果たしたキタサンブラックや競馬への思いを忌憚なく語ってもらった。
夢を見失わない
競馬ファンへのメッセージも伺い、色紙に書いてもらった。メッセージは「夢を逃すな」。
〈自分も夢を追いかけ北海道から出てきました。どうしていいかわからない時も遠くに光る灯台のように“夢”を見失わなかった。同じ北海道から出て来た馬たちも一生懸命に走って「ダービー」という晴れの舞台を迎えるわけです。何事も諦めず、「夢は逃すな」と言いたいなぁ〉
この言葉は馬だけでなく、後輩や弟子に向けたメッセージに違いない。よくいわれるような「夢を追いかけろ」でも「夢から逃げるな」でもない。肝は「どうしていいかわからない時も夢は見失わなかった」ではないか。目の前にある夢を見失わず、その夢を逃すなという生きる姿勢……。
東京・渋谷で3曲100円の流しから始め、デビュ-曲「ブンガチャ節」が発売1週間で放送禁止に。スタートでいきなり躓いたショックはいかばかりか。夢は潰えたかにみえた。しかし、北島は決意した。
〈夢と希望に燃えて、さア、スタート〉(前掲書)
夢を逃がすものかの心意気。弟子にもこの言葉は響いているに違いない。





