「真ん中に『座布団』を置いてもらわないと連立はできない」――鈴木宗男氏が語った「自公連立」誕生のリアルすぎる舞台裏
高市早苗氏の自民党総裁就任後に終焉を迎えた自公連立政権。四半世紀におよんだこの協力関係は、どのようにして始まったのか。
そしてその出発点では、どのような政治的駆け引きが行われていたのか。
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読売新聞グループ本社代表取締役主筆を務めた故・渡辺恒雄氏へのロングインタビューを元に、NHKチーフ・プロデューサーの安井浩一郎氏が執筆した『独占告白 渡辺恒雄 平成編~日本への遺言~』には、自公連立政権樹立にいたる経緯が生々しく描かれている。
当時、自民党が最初に連立相手として選んだのは、小沢一郎氏率いる自由党だった。しかし、自民党内では、その時点ですでに将来的な公明党との連立を見据えていたのだという。
以下、同書より一部を再編集して紹介する。
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自公連立 その後の政権枠組みの起点
党首会談での合意に基づき、一九九九(平成一一)年一月、自民党と自由党の連立政権が正式に発足した。自由党からは野田毅が閣僚入りした。しかし、自民党が自由党と組んだのには、別の思惑が秘められていた。それは公明党を連立政権に引き込むことである。
当時、官房副長官として政権中枢にいた鈴木宗男がインタビューに応じた。鈴木がかつて秘書として仕えていたのが、「北海のヒグマ」と呼ばれた中川一郎だった。現在の農林水産省の看板は、初代農林水産大臣を務めた中川の揮毫によるものである。後に派閥横断的なタカ派政策集団「青嵐会」を結成し、代表世話人を務めた人物だ。その中川がかつて秘書として仕えたのが、渡辺が政界の父と呼ぶ大野伴睦である。大野伴睦の秘書が中川一郎であり、中川一郎の秘書が鈴木宗男という秘書つながりのバトンが続いていたのだ。こうした奇縁で、鈴木は国会議員となる前の中川の秘書時代から渡辺とは顔見知りであり、数十年来の知己でもあった。
「中川一郎先生から秘書になった時に『読売新聞の渡辺恒雄さんは別格の人だからな』と。『電話が来ても丁重にしっかりと対応しなさい』と言われましたね。中川先生から見ても、大きな存在でもある記者さんだったんだなと私は感じながら、その通りやりました。お陰さまで秘書時代、渡辺さんからは『鈴木君、お前ほど働く秘書はいない』といつも褒められて、非常に感謝していますね」
鈴木は、公明党との連立を企図した自民党の思惑について、次のように証言した。
「参議院選挙で橋本龍太郎総理が大敗して、小渕恵三さんが総理総裁になるわけですけれども、参議院は与野党の逆転現象となっている『ねじれ』の状態でした。やはり政権の軸足をしっかりしようということで、小渕総理が最初考えたのは、公明党との連立でした。それで公明党に、野中広務官房長官と当時官房副長官だった私が色々アプローチしました。
当時、公明党は神崎武法さんが代表でした。公明党から『自民党と公明党が連立を直接組む前に、自由党を一枚かませて頂きたい。先に自由党と自民党が連立を組む。その半年後に公明党もついていく。こんな流れでどうでしょうか』という提案があって、そっちの方に舵を切っていきました」
――最初から連立の本命は公明党だったのでしょうか。
「公明党だったんです。当時の野中官房長官が小沢さんに対して『悪魔にひれ伏してでも』と言った表現がありますけどですね、あれは公明党の意向を受けての発言でした」
自民党は当初から、公明党との連立を模索していた。野中も小渕政権の前の橋本政権時から、公明党を「少なくとも党内でぶれない、連立するのには組みやすい相手」だと見て、連立を組むことを思い描いていたと証言している(1)。そして早くも小渕政権発足の半月後の一九九八(平成一〇)年八月の段階で野中は、国会対策委員長の古賀誠と前幹事長の加藤紘一の三人で、「参議院が過半数割れの状態は続けられず、連立は公明党以外には考えられない」との話をしていたという(2)。
私たちが昭和編の際に行ったインタビューでも、渡辺は岸信介、大野伴睦、三木武吉ら昭和期の政治家を引き合いに出し、政治家は時には「君子豹変」をしなければならないと語っていた(3)。かつて「悪魔」とまで呼んだ不倶戴天の間柄だった小沢一郎率いる自由党、そして「政教一致」と創価学会との関係を批判していた公明党との連立を主導していった野中の姿は、渡辺には政治術として必要な「君子豹変」と映っていたのであろうか。
ただ反自民で動いてきた公明党側には、一足飛びに自公連立政権を組むことが難しいという事情があった。公明党側は「いきなり自民党と公明党は一緒になれない。真ん中に『座布団』を置いてもらわないと連立はできない」「自由党が先で、それから公明党とも連立という手順を踏んでもらわないと無理だ」と、先行して自由党との連立を組むことを要望してきたという(4)。そこで自民党が白羽の矢を立てたのが、小沢の存在だったのだ。小沢は自自連立政権発足の一年ほど前まで、公明党を含む非自民勢力が結集した新進党の党首を務めていたためだ。自民党は、敵対していた公明党が連立に加わりやすいよう緩衝材となる「座布団」としての役割を、小沢率いる自由党に期待していたのだ。こうした自民党の狙いについて、どう捉えていたのだろうか。小沢に問うた。
――公明党といずれ連立を組みたいという自民党の狙いには気付いていたのでしょうか。
――公明党といずれ連立を組みたいという自民党の狙いには気付いていたのでしょうか。
「私が特にそのことを自民党サイドの誰かから聞いていたことは、全くありません。ただ当時、公明党の市川雄一さんと非常に懇意にしておりましたので、『公明党の意向としては自民党と連立したいと。だけど、自分たちから先にやるわけにはいかないから、ぜひ自自連立、自由党と自民党の連立を先にやってくれ』という意向は聞いておりました。
しかし、この連立については、自民党の思惑やら公明党の意向で行ったものではありませんね。本当に画期的な政策合意ができたので、それで連立を組んだというのが私の本意です。そういう経過なのにもかかわらず、この自自連立については、いわゆる政策的な合意には誰も関心を示さずに、政局的な観点からのみ語られているということは、非常に残念で遺憾に思っております。今でもその合意の一つである党首討論と呼ばれるものが、与野党でなされております。こういうことを考えていただければ、自自連立の政策的な意義も多少分かってくれるのではないかと思っております」
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こうして1999年10月、自自公連立政権が樹立し、2025年まで続く自公協力関係の枠組みが完成することとなった。
こうした自公連立誕生の舞台裏には、政策や理念だけではなく、政治家同士の人間関係や感情の機微が色濃く影を落としていた。
関連記事〈自公連立から自維連立へ……「宿敵」同士が手を結ぶのはなぜか? “平成最大のフィクサー”が語った「連立工作」の秘訣〉では、渡辺恒雄氏が「連立の時代」となった平成政治をどのように見ていたのかをひもといている。
また、関連記事〈「犬猿の仲」だった野中広務と小沢一郎は、なぜ手を組んだのか? 渡辺恒雄が語った「あまりに生々しい政局の舞台裏」〉では、「犬猿の仲」と呼ばれた政治家同士が、いかにして手を結ぶに至ったのかを追っている。
同書には2007年に渡辺氏自らが深く関与した、自民党 と民主党(当時)の「大連立構想」の舞台裏も描かれている。
そこには、政党同士が連立する際、「政策の合意」だけでなく、政治家ひとりひとりの思惑や人間関係が鍵を握っていることが伝わってくる。
翻って現在、自民党は日本維新の会との連立を選択し、政権運営に苦慮している。その背後には、いったいどのような政治家たちの思惑が隠されているのか……。
渡辺氏が関与した連立政権樹立の舞台裏を知ることは、現代の政治情勢を見る上でも、重要な視座を与えてくれるに違いない。
(注)
(1)野中広務、五百旗頭真、伊藤元重、薬師寺克行『野中広務 権力の興亡 90年代の証言』朝日新聞社、2008年、166頁。
(2)野中、五百旗頭、伊藤、薬師寺前掲『野中広務 権力の興亡』168―169頁。
(3)安井浩一郎『独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた』新潮社、2023年、266―267頁。
(4)野中、五百旗頭、伊藤、薬師寺前掲『野中広務 権力の興亡』169、172頁。
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関連動画(YouTube)では前中後編3本にわたり、同書を刊行したNHKチーフ・プロデューサーの安井浩一郎氏と、『渡邉恒雄回顧録』で聞き手を務めた東京大学名誉教授の御厨貴氏が、一周忌を機に渡辺恒雄氏について語り合っている。
〈一部サイトでは、動画は下部の【関連記事】より閲覧できます。〉
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