自公連立から自維連立へ……「宿敵」同士が手を結ぶのはなぜか? “平成最大のフィクサー”が語った「連立工作」の秘訣

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 高市早苗氏の自民党総裁就任後に終焉を迎えた自公連立政権。自民党は次なる相手として日本維新の会を選んだ。

 与党が提出した衆院議員定数削減法案は審議入りに至らず、議論は次の通常国会に持ち越されるなど、連立政権運営の難しさを早々に露呈している状況だが、そもそも、主義主張の違う政党同士が手を結ぶ「連立政権」の舞台裏では、いったい何が起きているのか?

 新聞記者でありながら政界工作にも深く関与し、巷間では「平成最大のフィクサー」とも呼ばれた渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆へのロングインタビューを元に、NHKチーフ・プロデューサーの安井浩一郎氏が執筆した『独占告白 渡辺恒雄 平成編~日本への遺言~』には、渡辺氏が自民党と自由党の連立政権樹立のため、自ら政治家にかけあった経緯が生々しく語られている。

 以下、同書より一部を再編集して紹介する。

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「連立の時代」となった平成期

 平成前期、日本は重苦しい停滞感に覆われていた。北海道拓殖銀行や山一証券など金融機関の相次ぐ破綻や不良債権問題に代表されるバブル崩壊の深い後遺症に、グローバリゼーションの進展が国内産業の空洞化に拍車をかけた。そして阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件などの未曽有の危機に対応しきれない政治に対しても失望感が広がっていた。

 こうした中、渡辺は当事者として政治を動かそうとした。そして政権与党・自民党と野党とを巻き込む連立工作に深く関与していった。渡辺は自らの果たした役割を、次のように概括した。

「仕掛け人だった。口説かなきゃいかん。それで僕は色々口説きましたよ」

 戦後、自民党の「単独政権」を基軸として派閥間での「疑似政権交代」が行われていた昭和期から一転して、平成期は小選挙区制の下で「連立政権」と「政権交代」の時代へと変貌した。一九五五(昭和三〇)年から一九九三(平成五)年の細川連立政権発足による自民党下野まで三八年間続いた五五年体制期、自民党が連立を組んだ期間は、第二次中曽根康弘内閣の二年半(新自由クラブ)にすぎない。それに対して五五年体制崩壊から現在に至るまでの三二年間のうち、三一年あまりの期間が連立政権であった。閣外協力を除く単独政権の期間は、第二次橋本龍太郎内閣の末期から小渕恵三内閣の初期までのわずか七ヶ月半である(1)。五五年体制が自民党単独政権の時代であるのに対して、五五年体制以後は連立政権の時代と言えるだろう。

 細川連立政権発足によって下野した自民党が政権を奪還したのもまた、他党との連立によってであった。政権奪還に執念を燃やす自民党は、あろうことか五五年体制で保革対立を続けてきた社会党に接近を図ったのだ。そして社会党・新党さきがけとの連立政権を組むという離れ業を演じ、下野から一年も経たない一九九四(平成六)年六月、社会党の村山富市を首班とする自社さ政権を発足させた。渡辺は期せずして総理大臣となった村山の人柄について述懐した。

「村山さんと二人だけで色々話しましたよ。村山さんは非常に率直な人でね、だいたい俺の家はボロで、お客を呼べる家じゃないと。金はねえし、そんな芸当〔総理大臣を務めること〕はやれんというようなことを言ったね。だからやってもらいたいと話をして、村山さんを口説いたね。それで村山さんと僕は二人だけで話す関係になった。僕は村山さんをいい人だと思ったね。村山さんも変わってくれたね」

「あんなに率直で正直で、威張らずに、本音をべらべらしゃべる政治家で、なおかつ総理大臣は僕は見たことがなかったんだよ。(中略)村山さんはイデオロギーではなくて、実生活に根差した組合活動を通じてだんだんのし上がってきた。非常に現実主義で、マルクス主義やレーニン主義もないんじゃないかな。だって村山さんのやることを見ていると、例の安保、自衛隊、国歌、国旗など全部容認するんだからね。彼はイデオロギーから生まれた社会主義者ではないんだよ。国歌、国旗、自衛隊、安保条約を認めようと認めまいと、国民生活には何も変化ないんだから。『そんなものはどうでもいいじゃないか』と言って踏み越えたのは大したものだよ。皮肉に聞こえるけれど、それで社会党を完全に潰す役割を担う。つまりマルクス主義政党を完膚なきまでに潰す。これは歴史的にも意味あると思うよ(2)」

(中略)

自自連立 キーパーソンを仲介した渡辺

 渡辺が動いたのは自民党が危機に瀕していたこの時期(※1998年、橋本首相率いる自民党の参院選大敗前後)のことだった。自民党と小沢一郎率いる自由党(新進党が分裂し、小沢を党首として発足)との「自自連立」をめぐる連立工作に動いたのである。

 橋本の後を襲い、自民党総裁となったのは自民党の最大派閥である平成研究会(旧経世会・小渕派)会長だった小渕恵三だ。昭和天皇崩御に伴う改元にあたっては、官房長官として「新しい元号は『平成』であります」と新元号を発表し、「平成おじさん」とも呼ばれていた人物だ。その後、経世会の後継会長の座をめぐり、小沢と激しい権力闘争を繰り広げた。小渕との派閥会長をめぐる権力闘争に敗れた小沢は、宮澤喜一政権下で野党が提出した内閣不信任決議案に、自民党議員ながら造反して賛成し、自民党が初めて下野する要因となった。この小渕の人柄について、渡辺は次のように述べている。

「小渕さんは、橋本龍ちゃんとは対照的にかなりの低姿勢なんだな。反感の持ちようがない。僕は小渕支持だよ。当初は小渕さんには行動力が伴わないと思って多少不安だったんだけれどね。でも、しょっちゅう僕に電話をくれるんだよ。もっとも、いろいろ多方面に電話をしているようだけどね。いろいろ話すと、僕の意見をきっちり聞いてくれるし、一所懸命やっている。優れた政策マンという評判はなくても、あの人は決断できる人なんだよ(3)」

「小渕さんは、秘書を通さずに自分で直接電話をかけてくるんだよ。これはちょっとほかの政治家にはないね。中曽根さんは別として歴代総理大臣のなかにはいない。あの人の気配りは相当なものだと思うよ。性格的なものかもしれないけれどね(4)」

 参議院選挙での惨敗で、自民党は参議院で過半数を大きく割る少数与党に陥り、国会は衆議院と参議院の多数派が異なる「ねじれ」の状態となっていた。総理大臣指名選挙においても、衆議院が小渕を首班に指名したのに対し、参議院は民主党代表の菅直人を首班に指名する状況であった。憲法の規定で衆議院の議決が優先され小渕は総理大臣に就任したが、発足時点から前途多難を予感させる船出となった。その後、日本長期信用銀行(長銀)や日本債券信用銀行(日債銀)などが破綻寸前となった金融危機では、野党・民主党の金融再生法案を丸呑みせざるを得ない前代未聞の事態に陥るなど、自民党は厳しい政権運営を強いられていた。

 この小渕政権を官房長官として取り仕切っていたのが、野中広務だった。野中は小沢と犬猿とも言える関係で知られていた。もともと野中と小沢は、同じ派閥である経世会に属していた。しかし、前述した経世会の派閥会長をめぐる権力闘争(同書第一章参照)と、それに伴う小沢の造反・自民党離党で袂を分かった。野中は経世会分裂を機に対立した小沢を「悪魔」とまで呼び、激しく批判していた。沖縄の駐留軍用地特別措置法改正案における小沢との「保保連合」への苦言も、こうした背景があってのことだった。その一方で野中は政権を取り仕切る官房長官として、政権安定のため小沢との連携に活路を見出さざるを得ない立場にあった。渡辺はこの野中から、小沢との関係修復を取り持ってくれるよう依頼を受けていたという。

 そして参議院選挙後の一九九八(平成一〇)年秋、渡辺は野中との会談に臨む。舞台となったのは、東京都港区愛宕(あたご)にある曹洞宗の名刹・青松寺の一角にあった料亭・醍醐だ。この日、野中と対面した時の様子を渡辺が述懐する。

「醍醐という料亭があるでしょ。お寺の中にある料亭。あそこで野中さんと会ったの。〔野中に〕名刺を出して『はじめまして、よろしく』と頭を下げた。そうしたら向こうはもっと頭を低く下げる。こっちはさらに頭を下げないといかん。おっかない人だと思っていた野中さんが、こうやって頭を下げてきた。非常に丁寧なの。俺もびっくりしたね。そうしたら何でもしゃべってくれるのね、この人は。小沢さんとの会談の中身も教えてくれるの。あの秘密主義みたいな、おっかない人が。だから扱いようだね、政治家っていうのは」

 実は渡辺と野中は、新聞の再販制度をめぐる立場の違いから必ずしも良好な関係ではなかった。しかし、この日の野中は、渡辺にこれまでになく丁重な態度を取った。野中は渡辺に「先生のご意見は、よくわかっております」と恭順の意を示した後、「色々誤解を招くような言動をして、ご不快を感じられたでしょうが、たいへん申し訳ない。あなたの誤解をとくためならどんなことでもします。ほれ、この通り」と、渡辺の目の前でひれ伏したという(5)。こうした熱意を受けて渡辺は、野中と小沢の仲介に向けて具体的に動いたという。

「とにかく小沢さんと不倶戴天みたいな仲悪い人を一緒に会わせて、飯食わせてね。小沢さんと野中さんとを会わせて、お互いに『よろしくお願いします』と言わせるようにしたんだ。これはね、僕も胃が痛くなる思いがしましたよ」

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 こうした渡辺の仲介もあって、「犬猿の仲」であった小沢氏と野中氏が手を結び、1999年に自自連立政権が成立することとなった。

 関連記事〈「犬猿の仲」だった野中広務と小沢一郎は、なぜ手を組んだのか? 渡辺恒雄が語った「あまりに生々しい政局の舞台裏」〉では、両者の会談が実現するまでの過程と、その場で交わされたやり取りを詳しく紹介している。

 渡辺氏が関与した連立政権樹立の舞台裏を知ることは、現代の政局を見る上でも、ひとつの重要な視座を与えてくれるに違いない。

(注)
(1)中北浩爾『自公政権とは何か―「連立」にみる強さの正体』筑摩書房、2019年、12頁。
(2)渡辺恒雄、御厨貴、伊藤隆、飯尾潤『渡辺恒雄回顧録』中央公論新社、2007年、474-475頁。
(3)渡辺、御厨、伊藤、飯尾前掲『渡辺恒雄回顧録』491頁。
(4)渡辺、御厨、伊藤、飯尾前掲『渡辺恒雄回顧録』492頁。
(5)魚住昭『渡辺恒雄 メディアと権力』講談社、2003年、14頁。

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 関連動画(YouTube)では前中後編3本にわたり、同書を刊行したNHKチーフ・プロデューサーの安井浩一郎氏と、『渡邉恒雄回顧録』で聞き手を務めた東京大学名誉教授の御厨貴氏が、一周忌を機に渡辺恒雄氏について語り合っている。

〈一部サイトでは、動画は下部の【関連記事】より閲覧できます。〉

動画はデイリー新潮サイト内で閲覧可能です。

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