「犬猿の仲」だった野中広務と小沢一郎は、なぜ手を組んだのか? 渡辺恒雄が語った「あまりに生々しい政局の舞台裏」

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 高市早苗氏の自民党総裁就任により終焉を迎えた自公連立政権。四半世紀におよぶ自民党と公明党との蜜月はあっけない幕切れとなった。

 そもそも、主義主張の異なる政党同士が手を結ぶ「連立政権」の舞台裏には、政治家たちのどのような思惑が隠されているのか?

 そもそも、主義主張の異なる政党同士が手を結ぶ「連立政権」の舞台裏には、政治家たちのどのような思惑が隠されているのか?

 読売新聞グループ本社代表取締役主筆を務めた故・渡辺恒雄氏へのロングインタビューを元に、NHKチーフ・プロデューサーの安井浩一郎氏が執筆した『独占告白 渡辺恒雄 平成編~日本への遺言~』には、渡辺氏が自公連立政権成立のきっかけとなった、自民党と自由党の連立(=自自連立)に深く関与した経緯が語られている。

 渡辺氏は、「犬猿の仲」といわれた当時の小渕恵三政権の官房長官・野中広務氏と、自由党の党首・小沢一郎氏の会談をセッティングするなど、二人の仲を取りもつために奔走したという。

 以下、同書より一部を再編集して紹介する。

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連立政権樹立の舞台裏

 渡辺は野中との会談前の段階から、小沢に自民党との連立を働きかけていた。渡辺は中曽根康弘とともに小沢に対し、「人間的な愛憎で動くのが一番いかんのだ」と説得したという。「それはわかるけれども、そういうチャンスがないんだ」と答えた小沢に対し、中曽根は「チャンスは俺らがつくるよ」と語ったという(1)。かつて中曽根は次のように証言している。

「ナベツネさんと二人で小沢君とは何回も会ってますよ。それで小沢君の思想を確かめ、彼を激励し、また現実的な歩みを暗示した。その意味で彼にひとつの確信というか、断行する勇気を与えたと思うね(2)」

 野中と相対した当事者の小沢一郎が、今回インタビューに応じた。小沢は基本政策で合意することを条件に、交渉のテーブルについたと明かした。

「自自連立のときには、たしか官房長官だった野中広務君のほうから話があったように記憶しております。連立というのは基本政策で合意できなければ駄目だということで、私のほうからは国連中心の安保政策、あるいは国会改革、あるいは社会保障政策などの基本的な考え方を向こうに伝えました」

 野中と小沢の会談を仲介していた渡辺は、この時期の小沢について、次のように述懐した。

「小沢さんとも会ったよ。ある時二人で会ったらね、ホテルで寝ているんだよ、横になって。どうしたんですかって言ったら、いや吐いた。野中さんと会って丁々発止やった後なの。もう参っちゃう。それほどね、あの図々しい人がやられるぐらい緊張するんだね。人間ですよ」

「小沢さんっちゅうのはね、ああいうタイプでね、えらい傲慢な野郎だと思っていたの。ところが実際に会って付き合ってみるとね、そうじゃない面があるんだ。実直で理論的だ。党と国家の政治のこと、真面目に考えているなと思ったね」

 渡辺は自自連立を新聞紙面でも後押ししていく。この時期の読売新聞には、「税の筋道通した『自自』提携を」(一九九八年一一月一二日掲載)、「危機脱却へ『自自』連携を進めよ」(一一月一七日掲載)、「自自連立を安定政治につなげよ」(一一月二〇日掲載)などの見出しの社説が掲載され、政治の安定のための自自連立の必要性が強調された。

 連立交渉は、野中が小沢に「悪魔にひれ伏してでも」と頭を下げる形で進展する。一一月一九日には小渕総裁と小沢党首の党首会談が行われ、自自連立政権を樹立することが合意された。連立に向けた政策協議の過程では、政府委員制度の廃止、副大臣や政務官の創設などが合意され、後に党首討論の導入なども合わせて国会審議活性化法として制度化された。渡辺はこの党首会談の合意が成立する直前にも小渕と小沢に電話し、「ここまで話が進んでいるのだから成立させるべきだ」と決断を迫ったとされる(3)。さらにこの時期、渡辺は野中の所属する派閥、平成研究会(旧経世会)への仁義切りにも汗をかいたと証言する。

「自自連立で私がもう一つだけ骨を折ったのは、この小沢・野中極秘会談の後、野中さんから頼まれて、当時小渕派会長だった綿貫民輔さん(のちに衆院議長)の了解を取り付けたことだった。『綿貫さんが賛成だと言ってくれれば、ただちに連立に動きます』と野中さんは言ったが、小渕派と小沢自由党はもともと一九九二〔平成四〕年の旧竹下派分裂で袂を分かった経緯があるから、野中さんとしては、派閥の会長の事前了解が必要と判断したのだろう。私は翌朝、綿貫さんの個人事務所を訪ねて、水面下で連立に向けた動きがあることを説明して、『綿貫さん、ぜひ賛成と言って下さい』と頼んだら、綿貫さんも『わかりました』と言ってくれた。会社に到着してすぐ官房長官室に電話をかけて、野中さんに結果を報告した(4)」

 連立交渉が成功裏に終わった理由について、渡辺は次のように語る。

「野中・小沢で、腹割って話せる関係になっちゃった。あれは奇跡だね。仲が悪いというか、関係ない人の信頼関係を作った。小沢さんも野中さんも性は善だと思ったね、僕は」

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 こうして手を結ぶことになった自民党と自由党。その後、公明党が加わり、その後の平成政治に大きな影響を与える自公の協力関係がスタートすることになった。

 関連記事〈「真ん中に『座布団』を置いてもらわないと連立はできない」――鈴木宗男氏が語った「自公連立」誕生のリアルすぎる舞台裏〉では、自自連立の背後で進んでいた「自公連立」構想の内実が、当事者の証言から明かされる。

 それから26年。公明党の連立離脱により、自民党は日本維新の会との連立を選んだ。その背後にもまた、政治家たちのさまざまな思惑が渦巻いていることは間違いないだろう。

(注)
(1)魚住昭『渡辺恒雄 メディアと権力』講談社、2003年、16頁。
(2)魚住前掲『渡辺恒雄 メディアと権力』15頁。
(3)魚住前掲『渡辺恒雄 メディアと権力』17頁。
(4)渡辺恒雄『反ポピュリズム論』新潮社、2012年、78頁。

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 関連動画(YouTube)では前中後編3本にわたり、同書を刊行したNHKチーフ・プロデューサーの安井浩一郎氏と、『渡邉恒雄回顧録』で聞き手を務めた東京大学名誉教授の御厨貴氏が、一周忌を機に渡辺恒雄氏について語り合っている。(

〈一部サイトでは、動画は下部の【関連記事】より閲覧できます。〉

動画はデイリー新潮サイト内で閲覧可能です。

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