最終回「べらぼう」が本当に伝えたかったこと 「横浜流星」が新たに体現した“メディア王”とは

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斬新な作品に

 江戸期を代表する出版人だった蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)を主人公とするNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」が終了する。蔦重を主人公とする物語は過去に数々あったが、そのいずれとも異なり、斬新な作品となった。作者の森下佳子氏(54)は何を訴えたのか。【高堀冬彦/放送コラムニスト、ジャーナリスト】

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 蔦屋重三郎が登場する物語というと、クライマックスには蔦屋が売り出した謎の絵師・東洲斎写楽が登場し、その正体に迫るというものが大半である。

 だが、時代劇から現代劇までオリジナル色の強い名作を紡ぎ続けている森下佳子氏の着想は土台から違った。写楽の謎解きの代わりに緊迫感あふれるストーリーを用意した。

 元老中首座・松平定信(井上祐貴)や蔦重たちによる仇討ちである。相手は御三卿の1つである一橋家の一橋治済(生田斗真)だった。

 仇討ちの第一歩は蔦重による写楽のプロデュース。この物語での写楽は個人ではなく集団だった。蔦重は20年来の付き合いである喜多川歌麿(染谷将太)らに、顔を大胆にデフォルメした役者絵を描かせる。第45回、1794年だった。

 蔦重の狙いは、死んだはずの平賀源内(安田顕)が写楽だと世に思わせること。源内たちを死に追いやった治済を動揺させるためである。だから個性派の源内らしい常識破りの絵になった。辻褄は合う。

 荒唐無稽な話ではない。森下氏は男女が逆転する同局の時代劇「大奥」(2023年)ですらリアリティを重んじた人である。まず、写楽は歌麿であるという説は研究者内に存在する。

 写楽は活動期間が1794年5月から約10か月しかないことが謎の1つなのだが、これも絵師集団が版元の蔦重によって一時的につくられたと考えれば説明が付く。 

 さらに森下氏は写楽1人が短期間で140以上もの作品を残したことに疑問を抱いた。1か月に約14作品。確かに多い。1人では肉体的に難しいはず。これも集団であるなら腑に落ちる。

 複数の傍証から森下氏は、写楽は集団であるという説を採用した。集団がつくられた目的は仇討ちのためと考えた。

 写楽は活動が短期間だったにも関わらず、画風が初期と後期で異なることから、集団説は研究者内にもある。写楽について現時点で最も有力なのは「正体は能役者・斎藤十郎兵衛」とする説だが、そう断定できる証拠は見つかっていない。

 森下作品はオリジナル色が強いものの、一方でストーリーの思考法はロジカル。視聴率アップのために派手な花火を打ち上げるようなところがない。一方で物語には辻褄合わせがなく、どこを切り取っても綻びが見当たらない。

推理の楽しさ

 仇討ちのターゲットとなった治済は実子の家斉(城桧吏)を11代将軍に就かせるため、邪魔者を手当たり次第に殺した。いや、いずれの場合も殺害した疑いは濃かったのだが、犯人であることは終盤まではっきりさせなかった。推理の楽しさを視聴者に持たせたのだろう。

 治済の悪行の輪郭が見えてきたのは第43回。ちなみに最終回は48回目だから、終盤である。元大奥取締の高岳(冨永愛)が、治済によって失脚させられた定信を訪ねてきた。高岳は治済による殺人に絡んでいた。重要な証拠も持っていた。1794年だった。

 高岳が関係した事件は10代将軍・家治(眞島秀和)の実子で、11代将軍なるはずだった家基(奥智哉)の殺害。鷹狩り用の手袋に毒を仕込まれた。

 治済側は家基の爪を噛むクセに目を付けた。手袋の毒が自然と口に入る。これでは毒味役がいても防げない。第15回、1779年のことだった。

 家基殺しでは犯人捜しが行われた。疑われた1人は蔦重と近しい老中の田沼意次(渡辺謙)。家基から政策を批判されていた上、高岳の依頼で手袋をあつらえた張本人だったから、疑ってくれと言わんばかりだった。

 実在の家基も鷹狩りのあとに死んでいる。死因ははっきりしない。毒殺説もあった。家基と関係が悪かった田沼もやはり疑われた。  

 同じ15回、手袋を押収し事件の真相を調べ始めた白眉毛こと老中首座・松平武元(石坂浩二)も殺される。武元は田沼が家基殺しに関係していないと断じていた。田沼には痛かった。

 田沼の意を受け、やはり家基殺害の真相を探った源内も殺された。天才・源内は犯行手口に気付いた。「家基の指を噛むクセを知っていた誰かが、田沼意次が用意した狩り用の手袋に毒を仕込んだ」。だが、源内は殺人事件の犯人に仕立て上げられたあと、獄死する。第16回、同じ1779年のことだった。

 田沼の実子・意知(宮沢氷魚)が江戸城内で佐野政言(矢本悠馬)に斬りつけられ、命を落としたのも治済の計略。治済の配下の人間が、佐野が意知を恨むよう仕向けた。第28回、1784年だった。もはやサイコパスと言っていいだろう。

 家治は1786年だった第31回に死んだが、これも治済によるもの。家治が体調を崩しているとき、家基の実母で側室・知保の方(高梨臨)が乳製品の醍醐を食べさせた。その後、家治は衰弱の一途を辿った。

 醍醐を知保の方に勧めたのが大奥の御年寄・大崎(映美くらら)なのである。治済の実子・家斉の乳母だ。治済がいいように操っていた。

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