【べらぼう】壮年期の蔦重を殺したのは松平定信? 命を奪った脚気の原因
一汁一菜で栄養バランスが保てない
江戸時代、白米を食べる習慣は江戸や大坂などの都市部から広がった。したがって、参勤交代で江戸に参府する大名や武士たちも、江戸にいると息切れしたり、足元がおぼつかなくなったり、ときには寝込んでしまうことが多かったという。足元に影響が出るのは、末梢神経や中枢神経が冒されるからで、重症化すると心不全を起こし、死に至ることが珍しくなかった。
ところが、患った武士たちも、領国に帰るとウソのように治ることが多かったという。このため脚気は、前述のように「江戸煩」と呼ばれたのである。
むろん、おかずをしっかり食べて栄養バランスをとっていれば、問題なかっただろう。ところが、江戸時代の食事は「一汁一菜」と呼ばれる簡素なスタイルが基本で、身分にかかわらず、すなわち武士や大名も含めて、ごはんのほかには味噌汁(一汁)と一品のおかず(一菜)というのが一般的だった。一汁はそれなりに具を多くしたとしても、一菜は漬け物や野菜の煮物などが中心だった。
しかも、おいしい白米が食べられることで、主食に偏重しおかずを軽視する傾向が生まれたからまずかった。
ちなみに、漬け物はビタミンB1不足を補う可能性があった。ぬか漬けは精米した副産物である米ぬかをつかった食品なので、ビタミンB1を大量に含み、脚気の予防に役立ったといわれる。とはいえ、ごはんを多く食べてカロリーやたんぱく質を補うのが、当時の食のあり方だった。大量の白米に見合うだけのぬか漬けを食べるのは困難だろうから、どうしてもビタミンB1が欠乏し、脚気が蔓延することになったと考えられる。
脚気は次第に大坂や京都でも流行るようになり、天保時代(1830~44)には地方都市にも波及していった。蔦重が脚気にかかったのは、天保の40年ほど前だが、江戸では白米がすっかり普及していた。
事実上、松平定信に殺された
『べらぼう』では、将軍補佐および老中首座となった松平定信(井上祐貴)の寛政の改革によって、風紀の取り締まりが強化され、多くの戯作が絶版になったり、蔦重自身が身上半減の処分を受けたりと、蔦重の事業が翻弄される模様が描かれてきた。
寛政の改革の倹約令は、いうまでもなく、食事も対象になった。そもそも質素な一汁一菜を、さらに徹底するように指導されたほか、外食や美食は極力控えるべきものとされた。江戸の名物料理とされた寿司、天ぷら、うなぎの蒲焼なども、倹約令の対象になった。
こうなると好きな食事ができず、白米ばかり食べることにならざるをえない。必然的にビタミンB1は不足する。生まれ育った吉原で美食に慣れ、メディアの世界で成功してからは食生活がぜいたくになっていたと容易に想像される蔦重が、食に関して倹約を余儀なくされたのは、痛かったのではないだろうか。
その結果、ビタミンB1が一気に不足し、脚気に罹患したのだとすれば、数え48歳の若さで急死しなければならなかったのは、松平定信に殺されたのも同然だといえるかもしれない。
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