歴代天皇が“即位の礼”の装束を贈り続ける「秘仏」の謎 有名寺院の「本尊」と天皇家の知られざる因縁

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 連日多くの外国人であふれる古都・京都。なかでも広隆寺は推古天皇の7世紀初め、渡来人の秦河勝(はたのかわかつ)によって創建された、市内でも最古の寺として知られる。思索にふける優美な姿と、国宝第1号の「弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)」を所蔵することでも有名だ。

 だが、広隆寺の本尊は現在その弥勒菩薩半跏像ではなく、「聖徳太子三十三歳像」であることは、それほど知られていない。太子33歳のときの姿を模したものとされ、年に一度、太子の命日に催される「聖徳太子御火焚祭」で特別に公開される秘仏である。

 この像が古代史ファンの注目を集める理由は、その衣装にあるという。「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」。歴代天皇が即位の礼のときにだけ用いる、黄色味がかった特別な束帯だ。じつはこの束帯、その秘仏に着せるために、室町時代以来ずっと天皇家から広隆寺に贈り続けられてきたのだという。この奇妙な慣習、いったいなぜはじまったのか。

 秦氏は高い技術力で古代日本の発展に最も寄与したにもかかわらず、当時の政治を牛耳った藤原政権に裏切られ捨てられた一族だという。諸説あるものの、歴史作家・関裕二氏はその秦氏と天皇家、とりわけ聖徳太子との関係に理由があるとみる。そしてその関係は、日本最古の書『古事記』の成立にも深くかかわるというのだ。近著『古事記の正体』から、その謎解きを抜粋して紹介しよう。

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秦氏にとって大きなダメージだった藤原種継暗殺

 なぜ秦氏と葛城氏や蘇我氏との関係に注目するかというと、『古事記』編纂に秦氏が関わっていて、大年神(おおとしのかみ)の系譜とともに建内宿禰(たけのうちのすくね)と蘇我氏をつなぐ系譜が特記されていたことに、秦氏の「複雑な心境」が隠されていると思うからだ(理由は徐々に語っていく)。しかも、なぜ『古事記』は顕宗(けんぞう)天皇の代で歴史記述を終えたのか、その理由を知る重大なヒントが隠されていたと思えてならないからだ。

 ただし、ここからお話しすることは、通説とは相容れないが、すでに他の拙著の中で述べてきたことなので、なるべく簡潔に説明しておきたい。

 長岡京遷都の造都責任者に選ばれたのは、桓武(かんむ)天皇が寵愛していた藤原種継(たねつぐ)で、母が秦氏の出だった。山背(山城)を開墾したのが秦氏であり、彼らにとって千載一遇のチャンスだった。長岡京遷都に協力し、朝廷内での存在感を増すつもりだっただろう。

 ところが、長岡京造営の突貫工事の最中、藤原種継は暗殺されてしまう。主犯格のひとりとされたのが桓武天皇の皇太子である弟の早良(さわら)親王で(おそらく冤罪)、桓武天皇は食事を与えず、殺したようだ。早良親王はもともと立太子以前、僧籍にあって藤原氏や桓武天皇が嫌う東大寺の重鎮だった。また桓武天皇は、弟ではなく、自身の子を即位させたかったのだろう。藤原氏内部の主導権争いと王家の骨肉の争いが重なり、悲劇は起きた。秦氏は大きなダメージを受け、没落し零落したのだ。

聖徳太子三十三歳像の謎

 秦氏が不運だったのは、ただ政争に敗れただけではない。藤原氏が百済系だったために、伽耶や新羅と縁の深かった秦氏は、虐げられていくことになる。秦氏は土木や冶金、建築その他、工人や技術者、商人や芸能の民を多く抱えていて、民を土地に縛り付ける律令制度とは、相性が悪かった。それもあって、今度は差別の対象になっていったのだ。

 だから秦氏は、『古事記』に、一族の歴史と恨みを織り込んでいるのではないか……。そう思わざるを得ないのは、秦氏の氏寺・広隆寺の本尊が、国宝彫刻の部第一号となったことで知られる弥勒菩薩半跏像ではなく、聖徳太子三十三歳像であり、しかも、天皇家は室町時代から歴代天皇が即位儀礼に用いた服(黄櫨染御袍)を贈りつづけてきたからだ(明治以降は新調したレプリカを下賜)。

 なぜ、聖徳太子を即位させるような行事を、天皇家と秦氏は続けてきたのか。これは、誰かの祟りを恐れるがゆえの行為なのだろうか。聖徳太子は推古天皇の皇太子だったが、即位できなかった。とはいえ、病死であり、誰を恨むこともなかったはずではないか。なぜ、秦氏の氏寺に、天皇家は即位儀礼の服を贈りつづけたのだろう。

 結論を先に言ってしまうと、秦氏は「聖徳太子の死」を揺すりの材料にして王家と藤原氏を脅していたのである。そこでなぜ、「聖徳太子の死」が揺すりの材料になったのか、説明していこう。

『風姿花伝』にも残る不思議な伝承

 室町時代初期に猿楽を大成させた世阿弥は『風姿花伝』に不思議な記事を残している。秦河勝と猿楽をつなぐ長い物語だ。

 秦河勝は六世紀に秦の始皇帝の生まれかわりとして日本に生を享けたという。また、物部守屋討伐戦の最中、上宮太子(厩戸皇子)は秦河勝に面を授け、演じさせると、天下は収まり静かになった。秦河勝は、この芸(猿楽)を子孫に伝えると、「化人(化生の人。変化。要は化け物。鬼)は跡形もなく消えるものだから」と、うつほ舟(丸木舟)に乗って風に任せて西に向かい、播磨国坂越(さこし)の浦(兵庫県赤穂市)に着いた。化人は祟ったが、人々が祀ると、国は豊かになった… …。

 今、坂越には大避(おおさけ)神社が祀られ、近くの生島に秦河勝の墓がある。そしてこの一帯には、『風姿花伝』そっくりな伝承が残る。人々は、秦河勝が恐ろしかったというのだ。

「上宮王家滅亡事件」と秦氏の関係

 この話の中で、問題はいくつもある。

『風姿花伝』の中で世阿弥は秦河勝の末裔と言い、しかも秦河勝は化人すなわち恐ろしい鬼だったと証言している。なぜ、御先祖様を鬼呼ばわりしたのか。

 そして第二に、播磨地方の地誌『播磨鑑』(江戸時代)に奇妙な記事が載る。秦河勝は、皇極二年(六四三)、「蘇我入鹿の嫉み」から「避ける(避難する)」ために、この地にたどり着き、だから「大避神社」になったとある。また、大避神社の伝承では、秦河勝が「入鹿の乱」を避けてこの地にやってきたのは、皇極三年(六四四)九月十二日のことだという。

 「入鹿の乱」は、上宮王家滅亡事件(六四三)と考えられている。聖徳太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのみこ)は、蘇我入鹿に追いつめられると、山背に逃げ、東国で挙兵すれば、必ず勝てると言っていた。山城を地盤としていたのは秦氏だから、秦河勝が山背大兄王を推していたという図式となる。そこで一般には上宮王家滅亡によって、秦河勝が播磨に逃れたと考えられている。

聖徳太子の子「山背大兄王」の墓はなぜ見つからないのか

 しかし、納得できない。まず、上宮王家滅亡事件は、蘇我入鹿を大悪人に仕立て上げるために『日本書紀』が創作した物語だ。「改革派蘇我入鹿」の業績を蘇我系皇族の厩戸皇子に預け、この人物を比類のない聖者に仕立て上げた上で、聖者の子の山背大兄王の一族を蘇我入鹿が滅ぼすという物語を用意して、「聖者殺しの蘇我入鹿」という図式を作り上げたのだ。だから、事件現場になった法隆寺周辺やほかのどこを探しても、上宮王家の墓はみつからない。もともといなかったのだから、当然のことだ。

 つまり、厩戸皇子(聖徳太子)は、蘇我入鹿を大悪人に仕立て上げるための偶像であり、本当は、蘇我入鹿が改革者であり、多くの人々に慕われた英雄なのだろう。『日本書紀』の編纂を主導した藤原不比等は、蘇我入鹿の正体を知られれば、中臣鎌足の正義は失われるから、精密なカラクリを用意して、事実を逆転させたわけだ。

蘇我入鹿暗殺の実行犯は誰か

 ならば、「入鹿の乱」とは何か。秦河勝が逃げてきたのは、蘇我入鹿暗殺事件に関わっていたからではなかったか。

『日本書紀』皇極三年(六四四)秋七月条に、葛野の秦河勝が登場する。ちょうど、乙巳(いっし)の変(六四五)の蘇我入鹿暗殺の直前の話だ。

 東国の不尽河(富士川)のほとりに住む大生部多(おおふべのおお)なる人物が虫を飼うことを村人に勧め「これは常世(不老不死の神仙境)の神だ。常世の神を祀れば富み栄える」といいふらした。信じたものは財を失ってしまった。そこで秦河勝は、大生部多を憎み、討ち取った。虫は蚕に似ていたという。

 ところが、時の人々が次のように歌ったと言い、これが奇妙なのだ。

 太秦は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲(きた)ますも

 秦河勝は、神の中の神と噂された常世の神を打ち懲らしめてしまった……。この話の直後に、『日本書紀』は蘇我氏の専横の様を記録し、それに続いて蘇我入鹿暗殺事件を並べている。一連の流れから考えて、秦河勝が懲らしめた「常世の神」とは、蘇我入鹿のことではなかったかと思いいたる。つまり、乙巳の変の実行犯は、秦河勝ではあるまいか。

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