雅子皇后、62歳誕生日で「皇室外交」本格復帰へのプロローグ 新年に「高市首相」との対面を控え「女性活躍社会」実現へ意欲も

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 皇后雅子さまは、12月9日で62歳の誕生日を迎えられた。

 雅子さまは「世紀の大工事」によって黒部ダムが完成した1963年、外務省の事務次官や国連大使を歴任した小和田恆・元国際司法裁判所長の長女として生を受けられた。男女雇用機会均等法の成立から今年で40年。日本初の女性総理となった高市早苗首相が誕生した今、スーツ姿の「キャリアウーマン」として同性から羨望の的となる中で外交官の道を捨て、エリート官僚のキャリアと引き換えに皇室入りされた雅子さまの辿(たど)られた紆余曲折の足跡を、ここで振り返りたい。

田園調布雙葉と海外

 雅子さまは1歳から恆氏の在ソビエト連邦(現・ロシア)日本大使館一等書記官就任に伴って旧ソ連に渡り、5歳のときには同氏の国連日本政府代表部一等書記官への転任で、米ニューヨークに移り住まれた。

 恆氏の外務省本省勤務に伴い、1971年3月に帰国すると、田園調布雙葉小・中・高で7年余り学ばれているが、宮内庁関係者はこの時期の雅子さまについて、こう語る。

「中学生時代に、ご自身でソフトボール部を立ち上げて、活躍されたんだそうです」

 その後、恆氏の在米日本大使館公使転属に伴い、米マサチューセッツ州ボストンへ移住。ハーバード大学を卒業し、帰国後、東京大学に外部学士入学を果たされた。男女雇用機会均等法は1986年4月から施行されたが、その半年後の10月18日、外交官試験に合格したばかりの雅子さまは、赤坂御用地で催されたスペインのエレナ王女の歓迎レセプションに「外交官の卵」として招かれ、天皇陛下と出逢われた。

 翌年の春、東大を中退して外務省にご入省。この年の暮れ、「週刊女性」が皇太子だった天皇陛下の「お妃候補」として報じたことで、雅子さまの存在が広く国民に知られることになった。

 テレビカメラに追い回され、日に日にヒートアップしていくマスコミ攻勢から逃がれるかのように88年から外務省の研修留学生として、英オックスフォード大学ベリーオールコレッジにご留学。だが、マスコミ各社は日本から大挙して大学にまで押しかけ、騒動は一向に収まることはなかった。90年に留学を終えて帰国された後も「小和田雅子さんフィーバー」は続いたことから宮内庁は沈静化に躍起となる一方、変わらぬ天皇陛下の想いを成就させるための手立てを水面下で探り、ついに92年10月3日、千葉の宮内庁新浜鴨場での極秘デートが実現した。

「結婚とキャリアの両立は難しい」とお考えだった雅子さまは、天皇陛下の「雅子さんのことは僕が一生全力でお守りします」とのプロポーズの言葉に即答はしなかったものの、

「外交官として働くのも、皇室の一員になるのも、国のために働くという意味では同じではないですか」

 との陛下の猛プッシュを受けられ、皇室入りを決断された。その背景について、正式にご結婚が決定した93年1月19日の皇室会議直後、雅子さまご自身も記者会見に臨んで示唆されたことはよく知られる。

 ご結婚後は翌94年11月からの3か月間に2度、4年間のブランクを経て99年に2度、再び3年間の空白を置いて2002年末に1度の5回、海外をご訪問。いわゆる「皇室外交」を担われた。だが、雅子さまは03年のお誕生日を1週間後に控えた12月2日、顎の周囲などに痛みを伴う発疹が発出。翌3日に帯状疱疹との診断を受け、療養生活に入られることとなる。

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