「あなたの写真を送ってください」ジョン・レノン銃撃犯から戦慄の手紙に「怖かった」「やばいな」

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ジャーナリスト・青木冨貴子氏インタビュー

 1980年12月8日、ニューヨークのダコタ・ハウス前で起きた世界的悲劇から45年。ジョン・レノンはなぜ、狂信的なファン、マーク・デイヴィッド・チャップマンに撃たれたのか。ジャーナリストの青木冨貴子氏が近著『ジョン・レノン 運命をたどる ヒーローはなぜ撃たれたのか』(講談社)で、その真実に迫っている。(全2回の第1回)

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 45年前、青木氏が事件一報を聞いたのは、東京・渋谷区松濤の自宅だった。ラジオから流れたジョン・レノンの死亡の報せに「とんでもない」衝撃を受けたという。

「なんでこんなにひどいことが起こったのか、なんでこんな運命が待ち受けていたのか、と思いました。ジョンは私たちにとってすごく身近な存在でした。それはオノ・ヨーコさんがいたからです。私は当時、音楽関連の仕事をほとんど辞めていましたが、ジョンやヨーコさんについては仕事でよく書いていた。それだけにショックは大きく、許せませんでした」

 のちに、「ニューズウィーク日本版」のニューヨーク支局長を務めた青木氏。すぐに、ジャーナリズム精神に火が付いた。チャップマンの妻グローリアがハワイに住んでいると知ると、「すぐにハワイに飛びました」。事件から5週間後にはホノルルにいた。しかし、この時の取材は空振りに終わる。

 次は、1981年8月24日のチャップマンの判決公判(懲役20年以上の無期懲役)を傍聴した後、本人への接触方法を探った。「とにかく、チャップマン本人に会って、話を聞いてみたかった」と青木氏は振り返る。

 事件から4年後の1984年10月30日付で、刑務所に収監されていたチャップマン宛に初めて手紙を送った。ほとんど期待できなかったにもかかわらず、1984年11月、チャップマン本人から一通目の手紙が届く。イギリス人による伝記が出版された後に、インタビューを受け入れる、という内容だった。

 その後、クリスマスカードを送るなど、交流は続いたが、青木氏が「狂気の片鱗に触れてしまったような気がした」と思わせる出来事が起こった。

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