【べらぼう】蔦重の時代の黒幕中の黒幕 生田斗真演じる「一橋治済」はどこまで悪人だったのか
家基、意知、家治の暗殺の可能性
結論にいたる経緯を詳細に記す紙幅はないが、前掲書はこう結論づけている。家基に乗馬を教えていた村松四兵衛について「彼は一橋治済によって送り込まれた刺客ではないだろうか。のちの村松家の異常な出世がそれを証明しているとしか考えられない。つまり裏の部分では鷹狩の責任者鳥居丹波守が総責任者となり、一橋治済の命のもと、新井宿の木原、鷹匠内山、馬係村松を巻き込んで、暗殺の準備をさせていたのである」。
その後、治済は将軍後継の人選係となった田沼意次の力を借りて、嫡男の豊千代を将軍家治の養子に送り込むことに成功したが、ここまでくると、治済にとって邪魔なのは将軍家治と深く結びついている意次だった。
天明4年(1784)3月24日、意次の嫡男で若年寄だった田沼意知が、江戸城本丸御殿内で新番士の佐野政言に斬殺された。この事件について、前出のオランダ商館長ティチングはこう書いているという。「この殺人事件に伴ういろいろの事情から推測するに、もっとも幕府の高い位にある高官数名がこの事件にあずかっており、また、この事件を使嗾[そそのかすこと]しているように思われる」。
この事件に関して、罪に問われた何人かは、いずれも軽い処罰で済んでいる。それを通達したのは目付の山川下総守だが、前掲書はこう書く。「この目付山川も、一橋治済と大きなパイプを持っており、こうなると大納言家基と同様、意知の暗殺も一橋治済の手の者によって実行されたのではないかと思われてくる」。
その後、天明6年(1786)8月、家治が急死する。その際、田沼意次は蘭方医の若林敬順と日向陶庵を推薦して投薬させたが、家治の病状はにわかに悪化し、ほどなく命が途絶えることになった。このため意次が黒幕で、彼が蘭方医に毒を盛らせたという噂が立ったが、家治が死んで一番打撃をこうむるのは、家治の寵愛によって自身の政治的立場が維持されていた意次であり、彼が家治の死の黒幕であることはありえない。
後藤一朗氏は「田沼の推挙した蘭方医を、将軍の病床に一日だけ立ち合わせたことは、毒薬調進の元凶らがそれをまぎらすための策略だったとも考えられる」と書いている(『田沼意次 その虚実』清水書院)。この時点で家治を邪魔に感じていた最右翼といえば、もちろん治済である。
種々の疑惑への判定は「真っ黒」
家治が死去して家斉が将軍になると、治済は将軍の父として隠然たる力を振るう。すでに邪魔になっていた田沼意次を追い落とすため、御三家に働きかけ、意次を廃除して松平定信を老中に推挙した。
しかし、定信は定信で、治済が将軍の背後で大きな影響力を行使している実態が許せなかったようだ。治済に引退した将軍の尊称である「大御所」の号を送りたいという家斉と治済の要求を却下。さらには、江戸城北の丸の外にあった一橋家の屋敷を、手狭になったのを理由に二の丸に移したいという希望も受け入れなかった。こうしたことが重なった結果、寛政5年(1793)7月、定信は将軍補佐と老中の両方の職を罷免されてしまった。
御三家の一角、水戸家の徳川治保はこの「政変」について、治済が定信を疎んじ、遠ざけようとした結果だと書いている。
ざっと見てきたように、治済が種々の「事件」の背後で暗躍した可能性は濃厚だといわざるをえない。『べらぼう』ではそれがよく描かれてきた。その点が評価できるだけに、最後の最後に、視聴者が溜飲を下げられる方向に筋を強引に運んだのは、少々残念だといわざるをえない。
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