【べらぼう】蔦重の時代の黒幕中の黒幕 生田斗真演じる「一橋治済」はどこまで悪人だったのか
オランダ人が記録していた家基の死の「真相」
一橋治済は早い時期から、「一橋家から将軍を出したい」と考えていたと思われる。一橋家は、8代将軍吉宗が将軍の血筋を絶やさないためにもうけた「御三卿」のひとつだが、筆頭は吉宗の次男の宗武が創始した田安家で、四男の宗尹が始祖の一橋家、9代将軍家重の次男である重好が創設した清水家がそれに続いた。したがって御三卿のなかでは、田安家の松平定信が、将軍には一番近い位置にいた。
そこで治済は、当初は幕閣の中心人物だった田沼意次に近づき、意次の甥の田沼意致を一橋家の家老として受け入れるなど協力関係を構築。まずは意次の力も借り、松平定信を将軍の命だという名目で、白河藩松平家の養子へと強引に送り出すことに成功した。だが、その時点では、10代将軍家治には嫡男の家基がいて、すでに次の将軍になることが決まっていた。その家基が安永8年(1779)2月、鷹狩に出かけて急死するのである。
数え18歳(満16歳)で壮健だったとされる家基が突然命を落としたことに関しては、同時代から暗殺説はあったが、『徳川実記』など残された史料には、2月21日に行われた鷹狩の帰りに寄った品川の東海寺で気分が悪くなり、3日後に江戸城で亡くなったと書かれている。ところが、秦新二氏と竹之下誠一氏による『田沼意次・意知父子を誰が消し去った?』(清水書院)には、両氏が見つけたあたらしい史料が示されている。
たとえば、自身の江戸参府の途中に家基の訃報を聞いたというオランダ商館長のフェイトは、「昨日、将軍の世継は、狩りの途中落馬し、鞍が胸に落ちた。彼はかなりの量、二瓶以上の出血があったらしい。彼は城へ連れられたが、その後、まもなく死去した」と書いているという。同様に商館長経験者のティチングも落馬の事実に触れているが、日本側の史料には「落馬」については一切触れられていない。
一般に、時の為政者の記録では都合が悪いことが消されるのに対し、利害関係がない外国人は、日本の為政者に忖度する必要がないので、聞いた事実を生々しく記録する。したがって、日蘭の記述がこうも違う以上、なにかが隠されていると考えられる。フェイトは日記にこうも書いているという。「将軍はこのことを深く悲しみ、ほとんど発狂寸前で、その苦悩のあまり、老中の一人を殴ってしまったそうだ。そして、何人かの人々は切腹し――」何人かが切腹したのが本当なら、家基の死に関して過失が問われたということになる。
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