日テレ「with MUSIC」に“終了”報道…いまや“オワコン”扱いの音楽番組が“ドル箱”だった時代を振り返る

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音楽番組がしのぎを削った時代

 かつてはGP帯で民放キー局の音楽番組がしのぎを削っていた時期があった。フジはタレントの故・前田武彦さんと芳村真理(90)を初代司会に起用した「夜のヒットスタジオ(通称:夜ヒット)」を1968年11月から90年10月まで水曜午後10時に放送。司会とゲストのトークの掛け合い、オープニングメドレーでは出演歌手がほかの歌手の曲を歌う企画など、コンテンツとしての歌番組のスタイルを確立した。

 続いて、TBSはタレントの黒柳徹子(92)と、番組スタート時は局アナで後にフリーに転じた久米宏アナ(81)を司会に起用して「ザ・ベストテン」(89年9月まで放送)を78年1月から木曜午後9時に放送。司会の2人の掛け合いが絶妙で、独自の邦楽ランキング上位10曲をカウントダウン形式で発表する生放送スタイルが注目を集めた。放送開始から1年足らずで視聴率30%超えの人気番組にのぼりつめている。

 そして、日テレは前番組「NTV紅白歌のベストテン」をリニューアルし、81年4月にタレントの堺正章(79)と女優の榊原郁恵(66)を司会に起用した「ザ・トップ10」(86年3月まで)を月曜午後8時に放送。毎週独自の邦楽ランキング上位10曲をカウントダウン形式で発表する、「ベストテン」に似たスタイルだった。

 70年代後半から80年代半ばまでは、3局の音楽番組が競合していたが、86年10月、ついにテレ朝が「Mステ」を金曜午後8時に放送する。

「ランキング形式の2番組は、ランクインしないと出演できないので、かなりハードルが高かった。『夜ヒット』は、各レコード会社の宣伝担当が必死でフジ社員に売り込みをかけていたそうです。当時は番組出演すると、次の日は全国のレコード店で売り上げが大幅にアップする。そんな状況ですから、歌手たちも出演を熱望しました」(レコード業界関係者)

 フォークやニューミュージックなど、一部に「テレビに出ない」スタイルの歌手もいたが、音楽番組全盛期は芸能事務所やレコード会社よりも、テレビ局の方が圧倒的に力関係は上だったので、歌手側は「出演させてもらっている」立場だったという。

「いずれも生番組だったので、生ならではのハプニングもたびたび起こりましたが、それも、視聴者を楽しませる要素となっていました。今よりも予算が潤沢だったので、地方にいる歌手の生中継など、当たり前のようにやっていました」(同前)

 しかし、どの時代もそうだが、「Mステ」以外はそれぞれの理由で衰退期を迎え、そのまま番組の歴史に幕を閉じることになってしまった。

「最初に終了したのは『トップテン』で、視聴率のテコ入れで徐々にリニューアルしたのが裏目に出ました。全体的にセットが簡素化してしまい、86年4月からは後番組『歌のトップテン』がスタートするも90年3月に終了しました。一方、『ベストテン』の命運を左右したのは、88年10月にフジでスタートしたとんねるずの冠番組『とんねるずのみなさんのおかげです』でした。視聴者をごっそり持って行かれ、視聴率が1ケタに落ち込むことが増えました。結局、視聴率は回復せず、そのまま歴史に幕を閉じることに。そのフジの『ヒットスタジオ』も、89年1月にタイトルを『夜のヒットスタジオSUPER』にしてから迷走。視聴率が低迷し終了となりました」(当時を知るテレビ局関係者)

 それでも「Mステ」は放送が継続されたが、日テレはゴールデン帯の音楽番組を放送せず、TBSは深夜帯にランキング紹介が主体の「COUNT DOWN TV」シリーズを放送し、20年3月から生ライブの「CDTVライブ!ライブ!」に引き継いだ。

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