「栄光のバックホーム」元阪神・横田慎太郎さん、今も語り継がれる野球人生
2023年に脳腫瘍のため28歳の若さで亡くなった阪神の元外野手・横田慎太郎さんの生涯を描いた映画「栄光のバックホーム」が11月28日から公開される。プロ3年目に開幕1軍入りを勝ち取りながら、4年目のキャンプ中に脳腫瘍が判明した横田さんは、2度にわたる手術後、復活を目指して日々努力を続けた。そして、現役最後の出場試合で、まるで「野球の神様」の贈り物のような“奇跡のバックホーム”を披露して有終の美を飾った。多くのファンを感動させ、今も語り継がれる横田さんの野球人生を振り返ってみよう。【久保田龍雄/ライター】
狙っていました
横田さんは1995年6月9日、ロッテ入団1年目から2年連続3割をマークした横田真之氏の長男として誕生した。鹿児島実時代はエースで4番で、140キロ超の左腕、高校通算29本塁打の投打二刀流としてチームを引っ張った。
しかし、2年の夏、3年の夏と2年連続県大会決勝で敗れ、甲子園にはあと一歩届かなかった。「育成でもいいから絶対プロに」と進路をプロ一本に絞った横田さんは、高校最後の夏が終わった翌日からグラウンドでひたむきにバットを振りながら、運命の日を待った。
2013年10月24日のドラフト当日、筆者は群馬県で食品加工会社を設立した河野博文氏(日本ハム→巨人→ロッテ)を取材していた。河野氏は明徳(現・明徳義塾)、駒大を通じて真之氏とチームメイトで、「今日は(真之氏の)息子さんが指名されそうですね」という話になったことを覚えている。
そのドラフトで、横田さんは阪神から2位で指名された。
「まさか2位で来るとはビックリです。指名を受けて、(高校時代に行きたくてたまらなかった)甲子園が浮かんできました」と喜ぶ横田さんに、29年前、ロッテに4位指名された真之氏も「(指名順位で息子に)負けましたね」とうれしそうに笑った。
「オリックス・糸井(嘉男)さんのように、走攻守三拍子揃った日本を代表するプレーヤーになりたい」と誓った横田さんは、3年目の2016年、オープン戦で打率.393、12球団最多の22安打と大活躍し、開幕1軍入りを実現、3月25日の開幕戦、中日戦に2番センターで先発デビューをはたした。
プロ初打席の初回、併殺崩れで一塁に残った横田さんは、50メートル6秒1の俊足でプロ初盗塁を成功させると、ヘイグの左前安打で二塁からホームイン、チームのシーズン初得点を挙げた。
圧巻だったのは、4月5日の巨人戦である。横田さんは同点の3回無死一、三塁、プロ初V打となる投前安打を記録したあと、三塁に進み、1死一、三塁でゴメスが三振したときに一塁走者が盗塁を試みると、「狙っていました」と迷わずスタートを切り、見事本盗を成功させた。
野球のことはいったん忘れてください
だが、その後は打撃フォームが崩れ、最終的に出場38試合の打率.190、0本塁打、4打点、4盗塁でシーズンを終えたが、翌17年はさらなる飛躍が期待された。
ところが、春季キャンプ中に原因不明の頭痛やボールが見えにくいなどの視覚障害に悩まされ、病院で検査を受けたところ、脳腫瘍と診断された。医師から「野球のことはいったん忘れてください」と言われ、ここから約7ヵ月にわたる闘病生活が始まる。
2度にわたる手術を経て、抗がん剤、放射線治療を続けていた苦しい時期に、横田さんは現在の自分の境遇に重なる歌詞に共感を覚えた、ゆずの「栄光の架橋」を何度も聴いて、「必ず甲子園のグラウンドに帰る」と誓った。
翌18年から育成契約となり、背番号も「24」から「124」になった。
「24番を取り返し、もう一度試合に出る」の一心で練習に励み、体力、筋力はほぼ回復したが、ボールが二重に見えたり、角度によってはまったく見えない状態が続いていた。
そして、育成2年目の2019年9月中旬、横田さんはついに現役引退を決意する。
9月26日のウエスタン、ソフトバンク戦が引退試合となり、試合終盤に守備要員で出場することになった。復帰後は最も守りやすいライトの練習をしていた横田さんだったが、平田勝男2軍監督は「エラーしたっていいから」と3年前の1軍開幕戦に出場したときと同じセンターを守るよう命じた。
当初は9回の1イニングだけの予定だった。だが、1点リードの8回2死二塁のピンチで、平田監督は突然守備交代を告げる。センターの守備位置に向かって全力疾走していく横田さんの姿を観客に見せたいという思いからだった。
2016年9月25日のソフトバンク戦以来、1096日ぶりの公式戦出場の感慨に浸る間もなく、いきなり市川友也の大飛球が飛んできた。中越え同点二塁打となり、なおも2死二塁で、塚田正義も鋭いライナーを中前に弾き返した。
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