阪神抑えのエース“幻のドジャース入団”も…メジャー挑戦を断念した「名選手列伝」

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 今年も巨人・岡本和真、ヤクルト・村上宗隆、西武・今井達也ら日本球界を代表する実力者たちのメジャー挑戦が話題を呼んでいる。過去には破格の好条件でメジャー移籍をはたした選手が多数に上る一方で、条件面で折り合わず、最終的に挑戦を断念した男たちも少なくない。【久保田龍雄/ライター】

ついにメジャーを断念

 まず1980年代では、阪神・山本和行の“幻のドジャース入団”が知られている。

 マウイキャンプでドジャースのコーチからピッチングを認められ、「フリーになったら、いつでも連絡してこい」と入団の確約を取りつけたことがきっかけだった。先発6番手にするという話もあり、背番号も「25」に決まっていたと伝わる。

 そこで、2度目の最優秀救援投手を受賞した1984年オフ、メジャー移籍を前提にして球団に退団を申し入れた。だが、FA制度もない時代とあって、「チームに必要不可欠の戦力」と引き留められ、ついに断念した。

 当時は85年春、ブルワーズの入団テストを受けた江夏豊のように、自由契約にならなければ、メジャーに挑戦できなかった。

 阪神に残留した山本は翌85年、中西清起とのダブルストッパーで5勝11セーブを記録し、史上2人目の通算100勝100セーブを達成するとともに、チームの21年ぶりVに貢献した。

 野茂英雄がメジャー移籍のパイオニアとなり、FA制度も導入された1990年代になると、メジャー移籍へのハードルも緩和され、長谷川滋利、伊良部秀輝ら挑戦する者が相次いだ。

 日本人捕手として初めてメジャーに挑戦したのが、オリックス・中嶋聡である。

 自慢の強肩が“メジャー級”と評価され、チームメイトのニールからも「向こうでやってみないか」と勧められた中嶋は1997年オフ、FA宣言してメジャー数球団と接触し、エンゼルスのテストを受けたが、打撃面の不安から、希望するメジャー契約は難航した。

 そして、12月21日の最終交渉でも年俸25万ドル(当時のレートで約3175万円)のマイナー契約だったことから、ついにメジャーを断念し、西武に移籍した。

 その後は横浜、日本ハムでもプレーし、46歳まで現役をつづけたあと、オリックスの監督として2021年からリーグ3連覇(22年は日本一)を達成したのは、ご存じのとおりだ。

 2000年代では、谷繁元信(横浜)、仁志敏久(巨人)、稲葉篤紀(ヤクルト)らがメジャーに挑戦したが、いずれも合意に至らず、残留、または移籍という形で国内に残った。

 その中で、年明け後の2月下旬までメジャー球団からのオファーを待ちつづけたのに、朗報が届かなかったのが、稲葉である。

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