地銀の内定を蹴って独立リーグへ…異色の元NPB投手「寺田光輝」がドラフト指名されるまで 夢に近づくために「自分の長所を極限まで磨き上げた」
今年も10月23日にプロ野球ドラフト会議が行われ、116名(本指名73名、育成43名)の選手が夢の切符を掴んだ。
今から8年前の2017年、ルートインBCリーグの石川ミリオンスターズ(現在は日本海リーグに属する)から、横浜DeNAベイスターズのドラフト6位指名を受けた寺田光輝氏(33)。怪我の影響などにより僅か2年間でユニフォームを脱いだが、その後は一念発起して東海大学医学部に合格。現在は5年目の学生生活を過ごしている。高校卒業後は三重大学に入学するも、まもなく中退。筑波大学への再入学や独立リーグでのプレーを経てプロ入りした寺田氏に、医師を志すまでの紆余曲折の人生を振り返ってもらった。(全3回のうち第2回)
【写真】ドラフト指名漏れで「頭が真っ白になりました」と当時を振り返る寺田氏
地元の国立大を3ヶ月で休学
高校時代は、部活に区切りを付けた半年間での追い込みが実り、寺田氏は三重大学の合格を掴んだ。しかし、レベルの高い野球部の練習と自身の実力とのギャップに苦しみ、入学してわずか3ヶ月で休学することに。その後はひたすらトレーニングとアルバイトを繰り返す「フリーターのような日々」を過ごした。
「このままプロ野球選手になれないのなら、医学部に入って実家の医院を継いだ方がいいのではないか?」と一念発起し、翌年冬に医学部を受験するも、吉報は届かず。その後も先の見えない日々を過ごす寺田氏の人生に光を灯したのは、大学生活2年目の夏。高校時代を共に過ごした野球部の後輩との再会がきっかけだった。
「筑波大に進学した高校の後輩が地元に帰ってきた時に、キャッチボールに誘ってくれて。『高校の頃よりも良いボールを投げているので、もしうちの大学に来てくれたら、きっと主力投手になれますよ』と熱心に声をかけてくれたんです。彼は地元で注目されていた選手だったので、実力のある後輩がそのように言ってくれるのなら、『もしかしたら何とかなるのでは?』と感じて、思い切って筑波大学を受験してみることに決めたんです」
若いうちにしかできない挑戦もある
寺田氏はトレーニングと並行しながら勉強を続け、その年の冬にセンター試験(現、大学入学共通テスト)を受験。「前年に医学部受験に向けた勉強をしていたこともあって、苦手だった理科も多少克服出来ていたように思いますけど、化学の成績が足を引っ張っていました」と3年目の受験生活を振り返るが、それでも順調にセンター試験と2次試験をクリアし、筑波大学体育専門学群に合格。入学後は野球部の門を叩いた。
「最初は『とんでもないところに来てしまった』と思いましたし、『部活を辞めたいな』と思うことは一度や二度ではありませんでした」
今年のドラフトで筑波大学の岡城快生選手が阪神のドラフト3位指名を受けたことからもわかるように、野球部では高いレベルのプレーが求められる。そのような環境に身を置きながらも、なぜ寺田氏は野球を続けることができたのか。その背景には、一人で練習に励んだ空白の2年間で、若いうちにしか挑戦出来ない夢の存在に気付かされたことも大きいという。
過酷な練習をこなしつつ、再び目標に向けて歩み始めた寺田氏の球速は、入学時の135キロから142キロに。4年春のリーグ戦に初出場を果たすと、リリーフとして計12試合に登板し、初勝利も掴み取ったが、ドラフトとは無縁の存在だった。
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