“女王・中山律子のライバル”の立場許せず 「須田開代子」が燃やし続けた執念(小林信也)

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 ボウリング人気が沸騰した当初、「女王」と呼ばれた女子プロは須田開代子だ。ところがその称号はすぐに中山律子のものとなり、実力日本一を自負する須田は中山の敵役になった。

 須田は1938年生まれ。ボウリングに出会ったのは25歳の時だ。ボウリングの球を輸入していた勤務先の上司に誘われてプレーしたのが最初だ。すぐ夢中になり、わずか2年でアマチュア日本一に輝いた。67年11月の第1回全日本オープンでも優勝。69年には最初の女子プロテストに臨んだ。

 この時すでに、須田は中山に対する強烈なライバル意識を抱いていた。人気者になりそうな中山の雰囲気を須田は直感し、警戒したのかもしれない。テストは4日間、計36ゲームで平均180以上が合格ラインだ。3日目を終え、トップは中山だった。合格順位がそのまま日本プロボウリング協会のライセンスナンバーになる。須田はどうしても1番が欲しかった。この時の有名な話がある。一緒にテストを受けた並木惠美子の証言だ(週刊ポスト)。

「4日目の休憩時間に私がトイレに行ったら、偶然おふたりがいらしたんです。須田さんが一言、『中山さん、まだ終わってないからね』と言って、ピリッとした空気が流れました」

 須田は見事逆転し、1番を手に入れた。翌70年には公式戦6連勝を飾り、“実力日本一”を証明した。だが注目は須田より中山に集中した。鋭い目つきの須田より、柔和で顔立ちも穏やかな中山が圧倒的に好感を持たれた。しかも中山は女子プロ初のパーフェクトを達成。第1回全日本女子選手権にも優勝。周囲は須田に遠慮することなく中山を女王と呼ぶようになった。須田は耐えがたい状況に追い込まれた。

整形で様変わり

 失意に沈んだ須田は翌71年1月、姉の住むアメリカに逃避行した。ボウリングへの情熱は以前にも増して燃えていたが“女王・中山のライバル”という立場には我慢ができなかった。

 そのアメリカで彼女は、当時まだ日本で一般的でなかった美容整形手術を受ける。帰国した須田は、印象鮮やかな二重まぶた、派手なボウリング・ウエアでファンを驚かせた。頭にあったのは、「中山に勝ち、中山以上の人気を得て、名実共に女王の座を奪い返すこと」だった。

 しかし、須田には技術的な課題があった。伸びの良い力強い投法が持ち味だったが、ボールの曲がりが少ない。プロ仕様のレーン・コンディションではストライクの出にくい投げ方だ。これを改善したいと考えて親しい知人に相談すると、「ボールを早く放した方がいい」と助言され、早速フォーム改造に取り組んだ。

 この異変に気付き、ひそかに慌てた人物がいた。男子の人気プロ・西城正明だ。西城が50年以上前の記憶を振り返ってくれた。

「女子プロは人気だけと思っていて、眼中にありませんでしたが、ある時テレビ中継を見て目を見張りました。須田さんが5位くらいから勝ち上がって優勝した。すごい気迫。この人は別格だと衝撃を受けたんです」

 その後、雑誌の対談で須田を褒めちぎった。すると、

「須田さんから手紙が来たんです。『大変うれしゅうございました』と書いてあった。驚きました」

 お互いに意識し始めた時、須田は不調のどん底だった。

「テレビマッチで一緒になった時、須田さんは予選で負けたし、ボールを足元にストンストンと落としているんです。えっ、と思って、『今度一緒に練習してくれませんか』と誘いました」

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