“女王・中山律子のライバル”の立場許せず 「須田開代子」が燃やし続けた執念(小林信也)
ボールが乗る感覚
二人で練習し、西城はすぐ不調の原因を突き止めた。
「並木さんも中山さんもボールが曲がる。私も曲がる回転にしたい」
それが須田の願いだった。
「黙って私のボールを持たせました。指の緩い部分はテープを貼って調整して、『このボールで小さめに助走して、最後に大きめにスライドして投げてください』そう助言したんです」
投げた途端、須田は顔色を変えた。何も言わずすぐもう一投し、叫んだ。
「これと同じボールを掘ってちょうだい! いま初めてみんなが言う感覚が分かった。投げる瞬間、2本のフィンガーにグッとボールが乗る感覚を感じた。これだったのかあ!」
フォームに欠点もあった。投げる時、左肩が高く上がる。すると右肩が下がり、手が伸びる分、ボールが曲がりにくくなる。
「最初は助走の間、私が須田さんの左に立って、左腕が上がらないよう上から手で押さえました。そのうち、左手にカバンを持たせてフォーム改造したんです」
成果はすぐに表れ、須田はその年、3冠王に輝いた。
須田は西城に言った。
「私以上にボウリングが好きな人は世界にいないと思っていたけど、いたわ。西城さんと一緒ならもっと強くなれる」
二人は74年に結婚。5年後に須田から別居を申し入れ、数年後に離婚。95年11月、胃がんの治療中、57歳で亡くなった。1カ月後に開かれた「ボウリング合同葬」には100人のプロボウラーと2800人のファン・著名人が集まり、中山が弔辞を述べた。
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