【べらぼう】いよいよ終幕へ 錦絵本のはなむけ、亡き妻を描写…緻密なストーリーのなかでも特筆すべき名場面ベスト5

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切腹を通して描かれたいくつもの時代状況

 4位は、第36回「鸚鵡(おうむ)のけりは鴨(かも)」(9月21日放送)で描写された恋川春町(岡山天音)の死。醍醐天皇の時代になぞらえ、定信の改革を茶化した著作『鸚鵡返文武二道』が絶版を申しつけられ、春町がみずから死を選んだ場面である。春町は駿河国(静岡県東部)の小島藩の江戸留守居役役で、本名は倉橋格といった。

 春町は寛政元年(1789)7月7月に死んだとされるが、原因については、同時代から自死とする声はあっても確定していない。曲亭馬琴著『近世物之本江戸作者部類』には、「当時世の風聞に、右の草紙の事につきて白川侯へめさらしに、春町病臥にて辞してまゐらず」と記されている。定信に出頭を命じられたが、病気を理由に参上しなかったというのだが、それもほかの史料で裏づけられる話ではない。

 しかし、江戸留守居役の武士が摘発されれば、主君に迷惑がかかる。当時の武士の倫理観に照らせば、死をもって償うべきだという結論が導かれても不思議ではない。とはいえ、世間を笑わせてきた戯作者が武士らしく死ぬだけでいいのか。すぐれた戯作者であるほど、そういう煩悶はあっただろう。そこで『べらぼう』では、春町は豆腐を入れた樽を用意し、腹を切ったのちにそこに頭を突っ込み、戯作者としては「豆腐の角に頭をぶつけて死んだ」という伝説を残した、という設定にした。

 寛政の改革が戯作の世界にもたらした影響、当時の武士のものの考え方や主君との関係性、戯作者の発想などがひとつの場面に集約された、秀逸な解決法だったと思う。

歌麿の美人大首絵が誕生した理由

 3位には、第38回「地本問屋仲間事之始」(10月5日放送)で描かれた喜多川歌麿(染谷将太)の姿を挙げる。歌麿が生涯の伴侶にするつもりだった「きよ」(藤間爽子)は、蔦重が連れてきた医師に「瘡毒(梅毒)」だと診断され、「難しいかもしれませんよ」と告げられた。その言葉どおりに、しばらくして帰らぬ人になった。

 しかし、歌麿はあきらめられない。看病しながら病床の顔を描き、彼女が事尽きて遺体の腐敗が進んでも、狂ったように彼女の顔を描き続きた。その結果、歌麿が「きよ」を描いた絵がたくさん残された。それらは歌麿の愛情を象徴するように、バストアップで彼女の顔が強調されていた。それを見て蔦重は、のちに歌麿の名を世界に知らしめる美人大首絵を思いつく、というストーリーだった。

 歌麿の美人大首絵は、おそらく刊行した蔦重のアイデアであろう。しかし、どういう経緯であの様式にたどりついたのかはわからない。また、歌麿の私生活についてもほとんどわかっていない。

 だが、歌麿の私生活をひもとくヒントが、専光寺(東京都世田谷区)の歌麿の墓にある。そこには「理清信女」と「蓮室涼圓信女」という2つの戒名が刻まれ、寛政2年(1790)8月26日になくなった前者は、歌麿の妻だった可能性が指摘され、その名が「清(きよ)」だったと考えられる。

 歌麿の大首絵は、単に顔が大きく描かれただけではない。それまでの表情が乏しい美人画と一線を画し、女性の性質や感情を見事に伝える。そんな絵が刊行される1年数カ月前に最愛の妻を亡くしていたなら、妻への思いが絵に反映されてもおかしくない。その点で、このフィクションには合理性と説得力があった。

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