ドラ1「風間球打」は4年で戦力外…プロでは鳴かず飛ばずだった“世代ナンバーワン投手”
2021年の高校世代ナンバーワン右腕としてソフトバンクに1位指名された風間球打(ノースアジア大明桜)は、1軍で1度も登板することなく、わずか4年で戦力外通告を受けた。平成以降、高校世代ナンバーワンとしてドラフト1位指名されながら、プロでは鳴かず飛ばずで終わった“幻のエース”たちを振り返ってみよう。【久保田龍雄/ライター】
フォーム改造に失敗
まず1991年のドラフトで巨人が単独1位指名したのが、天理の右腕・谷口功一だ。
191センチの長身から最速147キロの速球を投げ込む本格派右腕は、前年夏の甲子園では、1年先輩の193センチ右腕・南竜次(元日本ハム)とともに“ツインタワー”と並び称され、同校2度目の夏制覇に貢献した。
エースになった3年時は春夏の甲子園でいずれも2回戦敗退と活躍できなかったものの、高校ナンバーワンの評価は揺るがず、ドラフトでは入団を熱望していた巨人が若田部健一(駒大)の外れ1位で指名、「小さい頃から憧れてきた球団に指名されただけでも光栄なのに、最高の評価をしてもらえるなんて……」と喜びをあらわにした。
「槙原(寛己)さんや木田(優夫)さんみたいにストレートで三振を取れるピッチャーになりたい」とプロでの活躍を誓った谷口は、2年目に1軍デビューをはたすも、2軍降格後の8月に中3日の先発起用を強いられるなどの酷使で右肩を痛め、150キロあった球速も130キロ台にダウンした。
自慢の速球はよみがえることなく、実働2年(近鉄時代も含む)の登板7試合、0勝0敗、防御率7.36という不本意な結果に泣いた。
「(中日のエースだった)小松辰雄以来の逸材」と期待されながら、花開くことなく終わったのは、1993年の中日1位・平田洋(豊田大谷)だ。
3年夏の愛知県大会では、最速148キロの速球を武器に、4回戦の津島北戦で17奪三振を記録するなど、準決勝で享栄に逆転サヨナラ負けするまで38イニングで52奪三振の“ドクターK”ぶりを発揮した。
高校ナンバーワン右腕として全12球団が注目するなか、本人は「(地元)中日以外で野球をやることは考えていない。他球団に指名された場合は、浪人して来年のドラフトを待つつもり」と宣言し、満願叶って相思相愛の中日の単独1位指名を受けた。
「速球で勝負できるピッチャーになりたい」とプロでの抱負を語る“金の卵”に、星野仙一監督も「即戦力の期待もあるし、将来性は十分」と太鼓判を押した。
しかし、入団後はフォーム改造に失敗し、自分の投球を見失ってしまう。
中日では登板2試合の0勝1敗、防御率32.40と結果を出せないまま、98年オフに退団し、その後、前出の谷口とともに近鉄の入団テストに合格したが、翌99年は1軍出場がないまま、23歳で現役引退となった。
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