「個人成績への欲はなかった」「楽しんでやっていた」 “日本一の選手”と言われた広瀬叔功さんの「泥まみれ野球」【追悼】
物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は11月2日に亡くなった広瀬叔功(よしのり)さんを取り上げる。
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「個人成績への欲がなかった」
南海(現・ソフトバンク)の広瀬叔功さんは、彼こそ日本一のプロ野球選手だと称賛を浴びていた。
1961年から5年連続盗塁王。72盗塁を記録した64年には打率3割6分6厘で首位打者にも輝く。この2タイトル同時獲得は、プロ野球史上初の快挙だ。
日本シリーズで対戦した広岡達朗さんは振り返る。
「煩(うるさ)いランナーで悩んだものですよ。今だ、と感覚を体で覚えているので自然に走り出している。あれは天性。単純だけどいい男。野球を楽しんでやっていた」
36年、広島県大野町(現・廿日市市)生まれ。父は大工。進学した県立大竹高校は野球の強豪校ではなかったが、南海の目に留まり55年に入団。翌56年、1軍デビューから7打席連続安打を記録して印象を残した。
張本勲さんは思い返す。
「私の1年目(59年)当時、広瀬さんの守備はショート。もともと投手なので、強肩過ぎて送球が暴投になっていた。センターに転じると足が速いので追いつけないはずの打球も捕らえ、返球も鮮やか。攻走守がいずれも光った。参りましたね」
日本初のメジャーリーガー、村上雅則さんも言う。
「アメリカから南海に戻った66年からかわいがってもらいました。盗塁は、がむしゃらに走らず、1点が欲しい、勝ちにつなげる場面で走っていると話してくれました。チームのためにならない場面で走っても意味がないという徹底ぶり。もっと盗塁ができるのに個人成績への欲がなかった」
阪急の元エース山田久志さんは述懐する。
「広瀬さんが出塁すれば盗塁される覚悟をしていました。でも点差が開いていると走ってこなかった。打撃も素晴らしい。当たった後の走り出しが早く、内野安打も多い。広瀬さんのすごさは反応能力だと思いますね」
バッテリーには重圧だ。
「広瀬さんが三塁ランナーで、打者がピッチャーゴロ。こんなに浅いゴロではさすがに突っ込んでこないと判断したのですが、打球を捕った時、広瀬さんはもう本塁のすぐそばにいた。教訓として忘れられない場面です。長めのリードをしていても打球を見てスタートしては間に合わない。バットに球が当たる瞬間にゴロになるかフライかを見極めていました」(山田さん)
野村克也さんとの間に距離
親分肌の鶴岡一人監督を慕っていた。70年、1年先輩の野村克也さんが選手兼任監督に就任。気の合う仲間だったが距離が生じた。
南海で活躍した後輩である藤原満さんは言う。
「広瀬さんは投手の癖をつかむのではなく、投手が誰でも盗塁を成功させると言い実行してきた。野村さんのようにデータや理論で分析する人ではない。とんでもない身体能力の持ち主で人柄も温かい別格の存在でした。盗塁法を聞くと“パッと見てバーッといくんだ”という説明になる。皆が体得するのは難しかった」
77年引退。実働22年で2190試合に出場。596盗塁は福本豊さんに次ぐ2位だが、盗塁成功率は82.9%と上回る。
解任された野村監督の後任として翌78年から3年間監督に。鶴岡監督時代のような「泥まみれ野球」を提唱するが、成績は低迷した。以後、南海から転じたダイエーで90年代に2年間コーチを担った以外は指導者を務めていない。郷里の広島に戻り野球解説を続けた。
妻の祀子(としこ)さんは言う。
「現役時代、家では野球の話をしませんでした。子煩悩で孫もかわいがっていましたが野球を押し付けなかった。地元では船を操縦してアサリ漁を始めてみたり、スポーツ大会の手伝いも喜んで引き受けたりしていました。高校時代の友達の集まりも楽しそうでした」
体調が急変し、11月2日、89歳で逝去。
99年に野球殿堂入り。来た球を打ち、走りたい時に走り、うまくいけば喜んでいただけと語り、成績を誇ることはなかった。


