筋肉は「芸」にあらず? 自己肯定感の高さが批判の的に…マッチョ芸人が抱える“悲しきジレンマ”
芸人らしさを逸脱
ここ数年、筋トレに励む芸人が急増している。なかやまきんに君などの先駆者に続き、ジムに通い、プロテインを摂取し、ボディメイクを習慣化する芸人は確実に増加した。青木マッチョのように新世代の筋肉芸人も出てきている。【ラリー遠田/お笑い評論家】
***
【写真】「筋肉スゴい」「腕太過ぎ」と仰天…大注目の「マッチョ芸人」
しかしその一方で、筋肉芸人に対する風当たりが強まっているのも事実である。最近では「クロナダル」(テレビ朝日系)で、筋肉芸人をやや批判的に取り扱う企画も行われるなど、揶揄する風潮も表面化している。
こうした風潮の背景には、芸人という職業のもともとのイメージと筋トレという行為が持つ意味の摩擦がある。筋トレは単なる肉体強化ではなく、「自分を管理し、自分を変える」という意思表示である。体を鍛えることは自己肯定の表明であり、強い自意識の発露でもある。
だが、芸人の世界では長らく「余計な自己改善をしない」「欠点をさらけ出し、それを武器にする」という価値が共有されてきた。不健康であっても太っていても、それを笑いに昇華できるのが芸人の強さであり、むしろ「だらしなさ」が芸の源泉とされてきた文化がある。
そこへストイックに鍛えた筋肉を持ち込むと、どこか芸人らしさを逸脱した異物として扱われることになる。筋肉芸人が「真面目すぎる」「自己肯定感が高すぎる」といった枠組みで語られやすいのは、この文脈が前提にあるためである。堂々と鍛えた体を見せる行為は、芸のための自己犠牲ではなく、自分の欲求のために見えやすく、自分自身をも笑い飛ばすことを本分とする芸人の仕事と噛み合いにくい。
さらに、筋トレという行為自体が、芸とは関係のない努力の積み重ねと捉えられやすい点も揶揄の対象となる。芸人にとって、本気で努力している姿は笑いにしづらい。筋トレは習慣、食事管理、継続といった努力の結晶であるため、その「努力の見える化」が芸人としてのスキを減らしてしまう。お笑いにおいては、努力よりもだらしなさや情けなさを笑いに変換する構造が基本であり、鍛え上げた筋肉はその文法に馴染みにくい。
[1/2ページ]


