筋肉は「芸」にあらず? 自己肯定感の高さが批判の的に…マッチョ芸人が抱える“悲しきジレンマ”

エンタメ 芸能

  • ブックマーク

価値観の揺らぎの表れ

 とはいえ、筋肉芸人が本気で否定されているわけではない。番組で批判的に扱われることがあっても、それはあくまでも笑いという着地点を想定した揶揄であり、存在そのものを否定する意図は薄い。芸人はどんなことも笑いに変換できる特殊な立場にある。芸人らしく芸に打ち込むのも良いし、芸人らしくないことをあえて行って、そこに生まれるギャップを笑いにするのも1つの芸である。むしろ筋トレは、意図的にスキを作るための行動として合理的であるとも言える。

 さらに言えば、従来の「破天荒であるべき」「規律正しくするのは芸人らしくない」という古典的な芸人像そのものが、現代では時代遅れとなりつつある。若い世代ほどそういった古い価値観に対する抵抗が強く、自己管理や健康習慣を持つことが芸人らしくないとは見なされなくなってきている。筋トレが単なる自己満足だとは言えなくなりつつある。

 結局のところ、筋肉芸人をめぐる論争は、芸人という職業のアイデンティティをめぐる価値観の揺らぎの表れである。芸人は笑いを生み出す職人なのか、笑いに直接関係のないことも含めて、自分自身をネタにし続けるエンターテイナーなのか。従来の価値観では前者であり、だからこそ筋肉に傾倒する芸人は「芸から逸脱した存在」として小馬鹿にされていた。しかしメディア環境が変わり、芸人の活動の幅も広がる今、後者の定義も力を持ち始めている。筋肉も1つのコンテンツとして成立する時代になった。

 筋肉芸人への風当たりは、お笑い界における保守と革新のせめぎ合いを象徴している。古い芸人像を守ろうとする勢力と、新しい価値観を受け入れる勢力。その対立の最前線に筋肉芸人は立たされているのだ。

ラリー遠田(らりー・とおだ)
1979年、愛知県名古屋市生まれ。東京大学文学部卒業。テレビ番組制作会社勤務を経て、作家・ライター、お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など多岐にわたる活動を行っている。お笑いムック『コメ旬』(キネマ旬報社)の編集長を務めた。『イロモンガール』(白泉社)の漫画原作、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと「めちゃイケ」の終わり 〈ポスト平成〉のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『松本人志とお笑いとテレビ』(中公新書ラクレ)など著書多数。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。