【べらぼう】歌麿と決別した蔦重が写楽に走った理由…では写楽とは誰だったのか?

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蔦重を見限った歌麿

 鱗型屋孫兵衛(片岡愛之助)の長男の長兵衛(三浦獠太)から、西村屋に養子に行った弟の万次郎(中村莟玉)が喜多川歌麿(染谷将太)と仕事をする、と聞いた蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)。歌麿は自分のお抱えだと信じていただけに驚いて、本人に問いただしに行った。NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢~』の第43回「裏切りの恋歌」(11月9日放送)。

 すると歌麿は、もう蔦重とは組みたくないといい出した。理由に挙げた一つは、蔦重の耕書堂から刊行された歌麿の美人画は、「歌麿筆」という署名より上に、蔦屋の印が押されている、ということだった。加えて、万次郎と仕事をしてみたいという思いを語った。歌麿に吉原の女郎を描く仕事を依頼していた蔦重は、「吉原どうすんだよ! みな、お前が立て直してくれんのを頼りにして」といったが、「俺なりの恩の返し方をしていくよ」と歌麿。

 蔦重は「なんでもするから」と頭を下げ、考え直してほしいと哀願したが、歌麿は「それなら蔦屋をくれ」という。蔦重が無理だというと、「蔦重はいつもそうなんだよ。お前のためにっていいながら、俺のほしいもんはなに一つくれねえんだ」。歌麿が立ち去った後、蔦重は別れの言葉をしたためて去った。「20年、俺についてきてくれてありがとな。体はでえじにしろよ。お前は江戸っ子の自慢。当代一の絵師なんだから」。

 描かれた時代は、松平定信が失脚する寛政5年(1793)。史実の上では、この時点で歌麿が、すぐに蔦重のもとを離れたわけではない。だが、寛政6~7年(1794~95)ごろから蔦重とは距離を置き、若狭屋、岩戸屋、近江屋、村田屋、松村屋、鶴屋など、多くの版元から錦絵を出すようになった。もちろん蔦重には、歌麿が離れてしまうのは手痛かったはずである。

美人画に圧力をかけた寛政の改革

 寛政3年(1791)、山東京伝作の黄表紙『箱入娘面屋人魚』と洒落本『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』の3作が摘発され、身上半減の処分を受けた蔦重にとって、巻き返しをはかるための最大のコンテンツが歌麿の美人画、それも半身やバストアップに焦点を当てた「大首絵」だった。

 このように顔を大きくとらえた錦絵は、それまでは役者絵にしか例がなかった。それを美人画に取り入れたのは、おそらく蔦重の考案で、大々的にプロモーションした結果、おおいに流行した。

 歌麿の絵は、顔はみな同じにも見える。そのころ理想とされた美人像に近づけているからだが、表情は違う。若い娘から既婚女性まで、手の動きや身体の傾き、目もとなどのわずかな表情の違いなどで、各人のイメージが描き分けられ、心情までが深く伝わる。ほかの画家にはないその才能は蔦重が見抜き、歌麿に表現させたのだろう。

 しかし、松平定信による寛政の改革が推し進められ、倹約や風紀の是正が強く求められたのがこの時代だった。定信自身は寛政5年(1793)に失脚するが、その後も定信が取り立てた松平信明ら「寛政の遺老」が幕政を主導し、寛政の改革の方向性はしばらく続いた。

 歌麿の代表作のひとつに、江戸で評判だった3人の美人を1枚に並べて描いた『当時三美人(寛政三美人)』がある。3人とは難波屋おきた、高島屋おひさ、富本豊ひなで、最初の2人は水茶屋の看板娘、もう1人は富本節の名取の芸者だった。だが、この絵が身近なアイドルのブロマイドのような役割を果たし、彼女たちを一目見たい客が店に押し寄せるようになると、幕府は黙っていなかった。

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