【べらぼう】歌麿と決別した蔦重が写楽に走った理由…では写楽とは誰だったのか?

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歌麿と蔦重の方向性の違い

 寛政5年(1793)には、絵に描かれた娘の名前を入れてはいけないという町触れが出された。そこで歌麿は、名前を判じ絵で表現するなど工夫を重ねた。たとえば難波屋おきただと伝えるために、絵の左上に、2杷の菜っ葉(なにわ)、矢(や)、船が浮かぶ沖(おき)、田んぼ(た)を描くなどした。しかし、これも寛政8年(1796)には禁じられてしまう。

『べらぼう』では、御上に対してかなり強気な姿勢の蔦重が描かれてきた。だが、さすがに身上半減の処分を食らってからは抵抗しにくい。しかし、歌麿は違ったのだろう。浮世絵の研究者・田辺昌子氏は、そこに2人が袂を分かった原因を見出し、次のように書く。

「ほぼ独占状態で作画を依頼してヒット作を出していた歌麿を(註・蔦重が)そのように簡単に手放すだろうか。これにはやはり寛政の改革に対して怯んだ様子を見せず、むしろ抵抗するような作画を続けようとした自負心の強い歌麿との方向性の違いがあったように思う」(『もっと知りたい 蔦屋重三郎 錦絵黄金時代の立役者』[東京美術])

 だが、いろいろな版元と仕事をするようになって、歌麿ならではの傑出した美は、失われていったように思われる。歌麿の描写力や心情表現の才能をどう活かすべきか、蔦重という傑出したプロデューサーがいなくなって、わからなくなったのではないだろうか。

 いずれにせよ、歌麿が離れていくタイミングで蔦重が打ち出したのが、東洲斎写楽による役者の大首絵だった。寛政6年(1794)5月の都座、桐座、河原崎座の三座に取材したもので、まず第1期の作品として、縦約39センチ、横約26センチの大判と呼ばれるサイズの奉書紙に、役者の上半身を描いた28点(うち5点は1枚に2人の人物)が出された。いずれも背景は豪華な黒雲母で摺られていた。

漢字を入れ替えると「斎東洲(さいとうじゅう)」

 歌麿の美人大首絵の成功体験がある蔦重が、幕府から規制されにくい役者絵の世界でも同様の大首絵で勝負できる、と踏んだのではないだろうか。役者絵には美人大首絵が登場する前から、ブロマイド的な需要があった。ただし、蔦重は主役級の人気役者だけでなく、端役の大首絵も刊行している。したがって、芝居の関係者やファンが費用の一定程度を負担した入銀ものだった可能性もある。

 しかし、写楽の絵が出された期間は短かった。作品は4期に区分されるが、期間でいえば寛政6年(1794)5月から翌寛政7年(1795)1月までの、わずか半年余りにすぎない。

 写楽とはだれだったのか。有力なのは徳島藩のお抱え能役者、斎藤十郎兵衛説である。『江戸名所図会』などで知られる斎藤月岑は、天保15年(1844)に記した『増補浮世絵類考』に、「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯(註・徳島藩主)の能役者なり」と書いている。以前は、斎藤十郎兵衛が実在したかどうかはっきりせず、「写楽はだれか」という謎解きが盛んな時期があった。しかし、いまでは斎藤十郎兵衛の実在が確認され、彼が写楽だというのがほぼ定説になっている。

 実在したという根拠の一例を挙げれば、埼玉県越谷市の法光寺で発見された過去帳に、八丁堀の地蔵橋に住んでいた徳島藩士の斉藤十郎兵衛が58歳で死去し、文政3年(1820)に千住で火葬された、と記されている。ほかに徳島藩主だった蜂須賀家の古文書や能役者の名簿などにも、斎藤十郎兵衛の名が確認できる。

 さらにいえば、「東洲斎」という姓の漢字を入れ替え、「斎東洲」とすると「さいとうじゅう」と読める。実際、「洲」という字は江戸時代には「しゅう」ではなく「じゅう」と濁点で読まれたという指摘もある。

 では、写楽はなぜ姿を消したのか。前述のように、寛政の改革の余波が残っていた時代である。武士の嗜みである能楽で大名に仕える人間が、当時の身分制度にあっては下層に置かれて役者を描いていたことがバレてはまずい、という意識が働かないほうが不自然だったといえるだろう。

 ただし、『べらぼう』では写楽は、斎藤十郎兵衛としては描かれないようだ。それはドラマを見てのお楽しみとしたい。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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