【ばけばけ】北川景子演じるタエは例外でなかった…士族が次々と物乞いになった明治の恐ろしい事情
すべてを投じた機織り会社が破綻
では、松江の士族は、具体的にどんな状況に陥ったのか。以後は長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の記述を参考にしながら記したい。明治18年(1885)2月9日付だから、『ばけばけ』のトキのモデルである小泉セツが17歳のころだが、貧窮士族対策を論じる山陰新聞の社説では、「松江居住の士族約二千三百戸の七割を、『自活の目途なきもの』とし、その上、全体の三割を『目下飢餓に迫るもの』としている」という。
また、翌明治19年(1886)5月18日付の同じ新聞に「士族生活概要」が載っていて、それによれば、「松江市及び近村に居住する士族のうち、五十八戸、二百四十人が『乞食するもの』であり、ほかに、三百六戸、千百十三人が『在籍無住にして詳かならざるもの』であった」という。
つまり、『ばけばけ』で描かれている時代、とりわけ維新で新政府軍の敵あつかいされた松江では、士族が物乞いをしていても、少しも珍しいことではなかった。なにしろ、物乞いに身をやつす士族が増えたため、山陰新聞では「士族乞食」が常套語として使われるようになったほどで、士族乞食の1人が、2人の娘を連れて物乞いをしているあいだに川に転落し、這い上がれずに力尽き、2人の娘が泣いていた、という記事まで掲載されたという。
『ばけばけ』の雨清水家のモデルとなった小泉家も例外ではなかった。雨清水傳のモデルである小泉湊も、やはり公債を投じ、多くの人と同様に機織り会社をはじめ、最初は軌道に乗っていたという。しかし、明治18年から19年にかけての不景気で続々倒産。セツが働いていた小泉湊の会社も、この流れのなかで破綻したと考えられる。
「姫」はなにもできないほうがよかったので
小泉家はまず、家来を住まわせていた門長屋に移り住んだ。その後、市内の母衣町、殿町などの縁者のもとを転々としたが、その過程で湊の次男が19歳で死去し、主人の湊もリウマチで病床に伏すことになり、長男は出奔してしまう。一方、『ばけばけ』の三之丞(板垣李光人)のモデルである三男の藤三郎は働きもしない。ある朝、父の湊は病床から起き上がって馬の鞭をとり、藤三郎の襟首をつかんで「親不孝者め!」と罵り、鞭で滅多打ちにしたという。その後、傳の病状は悪化し、51歳で死去してしまう。
傳の采配でなんとか生活だけはできていた小泉家だったが、その死後、一挙に転落していく。傳の妻でセツの実母、すなわち『ばけばけ』のタエのモデルであるチエは、親戚に頼ろうにも親戚も没落していた。チエは松江藩の重臣である塩見家の生まれだが、長兄の塩見小兵衛は零落。有力な親戚も財産を失っていた。結局、チエも家に残る品々を次々と売り払って、なにもなくなってからは物乞いをするしかなくなったのである。
第8週では、松江新報の新聞記者の梶谷吾郎(岩崎う大)が、チエが物乞いをしていることを記事にしようとする場面があるが、実際、チエのことは山陰新聞が「乞食と迄に至りし」と報じていた。
とくに士族の女性は、かつての身分が高いほど生活力がなかった。彼女たちは幼少のときから、一大事の際には死をも怖れないように厳しくしつけられ、嗜みも身につけたが、日常生活に関しては、「姫」にふさわしくなんでも周囲に任せ、自分の家の場所さえ説明できないのがよいとされていた。だから、零落してからも、1人で外出すると家に帰れないような女性が多かったという。
前掲書にはこう書かれている。「セツの母のチエは、家老の娘として育ち、上士の奥方であった。そして、新しい社会への適応が困難な年齢で、性格強固な夫を失ったのである。彼女は、いわば極端な零落に至るすべての条件を満たしていたと言えるであろう」。
『ばけばけ』で描かれた物乞いするタエの姿は、ドラマならではの大げさな描写ではなく、この時代の士族が陥った典型的な姿なのである。





