寝室一面にセリフを貼り、ベッドに寝ながら懐中電灯で…「仲代達矢さん」死去 “生涯俳優”を貫いた極意

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 俳優の仲代達矢さんが11月8日に亡くなった。92歳だった。小林正樹監督の「人間の條件」(1959~61年)、「切腹」(62年)、岡本喜八監督の「大菩薩峠」(66年)、黒澤明監督の「影武者」(80年)、「乱」(85年)など、名監督の作品に主演する映画スターでありながら「自分は新劇俳優」の姿勢を貫いた。最後となった作品も今年6月に上演された舞台だった。2014年には81歳で初の一人芝居に挑戦。その際、「週刊新潮」の取材に応え、寝室でのセリフ覚えの極意を明かしていた。

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 仲代さんにはたびたび「週刊新潮」に登場していただいた。例えば、1985年11月7日号には「酒」と題したエッセーが掲載された。一部を転載すると、

《名前もつけずになんとなく稽古をやっていた名無し塾が早いもので満十年、無名塾十周年記念ということで、今年は『どん底』公演とその舞台のビデオ化と記念誌の出版……あまりやりつけないことまでやることになって忙しい。(中略)私の役はサーチンという飲んだくれのいかさま師、全編半ば酔った演技で、冗談飛ばしたり、ひっくり返ったり、高揚して「人間、これが真実だ!」と大いに盛り上がったりする。酒呑みの役をやりながら、日本中を回って、その土地の良き観客と、うまい酒にめぐりあう。》

――冬の北海道・旭川で酒造会社の社長と意気投合して飲み歩き、別れたところで舞台さながらすってんころりん。顔や手に怪我を負ってしまい、無名塾の劇団員に説教をする。

《「雪とうまい酒には気をつけろ! 役者が顔に怪我をするのはもってのほかだぞ。俺は今年は演出家だからな。こういう時には転んでもいいんだ!!」》

 87年5月14日号には「掲示板」に登場していただき情報提供を求めている。

《東京・渋谷駅前の銅像で有名な、秋田犬ハチ公の実話を映画化した『ハチ公物語』がこのほどクランクインしましたが、この中で、ハチ公の飼い主上野教授の役で出演しています。(中略)この上野教授とハチにまつわる逸話をご存じの方はいらっしゃいませんでしょうか。主人が亡くなった後も渋谷駅で主人の帰りを待ち続けるハチの記事と写真は昭和初期の新聞で知ることができますが、この欄を通じて生前の上野教授とハチのエピソードを入手できたらと思っています。》

「用心棒」のオファーを断る

 出色だったのは2014年5月1日号に掲載された「『七人の侍』封切り60年 NG連続から始まった『黒澤明監督』との縁」で語った若き日のエピソードだ。

《60年という歳月を経ても、『七人の侍』の撮影現場での記憶は鮮明に甦ってきます。セリフもなく、エキストラに過ぎない役どころでしたけど、憧れの黒澤映画への初出演となった作品でしたから。》

――と始まるインタビューは、俳優座養成所に入る52年頃の話から始まる。養成所2年生の時、「七人の侍」のオーディションがあることを知って同期の宇津井健らと受験。ともに合格し、朝9時に現場に向かったのだが……。

《僕は、村人が傭兵捜しをする往来を歩いているだけの侍の役で、セリフもありません。僕と同じエキストラの侍は数人いましたが、撮影が始まると、黒澤監督は、「お前、歩け」と最初に僕を指名しました。》

――ところが、何度やってもOKが出ない。三船敏郎らの冷たい視線を浴びながら、ようやく「もういいや、OK」と解放されたのは午後3時に。この時、反黒澤の思いが燃え上がったという。

《「もっと演技力を身に付け、今後、もし黒澤監督から声がかかっても、絶対に断ってやるぞ」と決意した。》

――それから7年後、大作「人間の條件」の主演も務めた仲代さんに、黒澤監督から「用心棒」のオファーが入った。

《その頃には、新劇俳優としても映画俳優としても割と名の知られた存在になっていた。僕は、俳優座のマネージャーに、出ませんと伝えました。》

――驚いたのは黒澤監督だった。「なんで、こんないい役を断るんだ!」と仲代さんを渋谷の旅館に呼び出した。

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