「日本の警察に負けた」と言わせた警官、国葬となった元仲間、墓前に集まる男たち…日本で暗躍したソ連スパイ「ゾルゲ」を取り巻く人々

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 日本で暗躍した海外スパイとして、現在も高い知名度を誇るリヒャルト・ゾルゲ。そのゾルゲが東京の巣鴨拘置所で極刑に処されたのは、1944年11月7日のことだった。ゾルゲ自身と事件については研究家たちに話を譲り、ここでは「週刊新潮」が断続的に掲載した関連記事から、「ゾルゲの周辺」に目を向けてみよう。

ゾルゲを自白に追い込んだ男

 昭和16(1941)年10月24日午前、東京拘置所。男は大きく息をすると突然立ち上がり、上着を脱いで椅子に投げつけ、両手の拳を震わせながら部屋中を歩きまわり、ドイツ語で喚き散らした。

「いかにも俺はコミュニストだ。ソ連邦のため日本に来てスパイ活動をした。俺は今まで、どこでも一度も負けたことはなかった。しかし今度は負けた。日本の警察に負けた」

 リヒャルト・ゾルゲ(46=当時)が自白した瞬間である。このゾルゲを、取り調べ6日目にして自供に追い込んだのは、警視庁特別高等警察部外事課欧米係の警部補、大橋英雄氏(38=当時)だった。大橋氏が99歳で死去した2002年6月、当時、「スパイ・ゾルゲ」の公開を控えていた映画監督の篠田正浩氏(2025年3月死去)は、「週刊新潮」に大橋氏の思い出を語っている。

〈「ゾルゲを通じて日本の昭和を描けるのではと長年考えていました。大橋さんは非常に詳細な手記、記録を残しておられた。ゾルゲ逮捕のシーンなどは、大橋さんの記録がなくては正確な描写は不可能でした。臨場感のある記録の正確さと、思いの強さには驚かされました」〉(「週刊新潮」2002年6月20日号「墓碑銘」より)

 この映画で大橋氏を演じた菊地康二氏は、大橋氏の99歳を祝う席に駆け付けた。そこでゾルゲの名前を聞いた大橋氏は、様子が一変したという。

〈「表情から声の張りや勢い、すべてがそれまでとは変わり、本当に意気揚々とした感じになって話が止まらない。機関銃のごとく、ゾルゲの書斎に踏み込む話や、証拠品として本や書類を運び出す時の様子などがすらすらと続き、内容や描写も実に細かい。別人のようでした」〉(同)

無線係はなぜ国葬となったのか

 大橋氏にかくも鮮烈な印象を残したゾルゲは、1933年から日本での活動を始めた。表向きはドイツ人特派員、裏の任務は情報網の構築である。上海で知り合った日本人記者、元満州鉄道調査部嘱託職員の尾崎秀実(ほつみ)ら協力者の中には、モスクワへの無線係だったドイツ人、マックス・クラウゼンがいた。

 ゾルゲとともに逮捕されたクラウゼンは終身刑に。戦後に釈放された後の消息は一時途絶えたが、1979年10月、東ドイツでの国葬が報じられた。その当時、「一度会ってみたかった」と語ったのは、尾崎の異母弟にあたる文芸評論家の尾崎秀樹氏(1999年9月死去)。

〈「クラウゼンは戦後に釈放されると、一時、東京の弁護士宅に身を寄せていたんですが、昭和21年の春ごろ、“ちょっと出かけてくる”といったまま、こつぜんと消息を絶ったんです。アメリカ側がゾルゲ事件を調べ出さないうちに、ということで、ソ連側の関係者の手によって、東ドイツへ帰ったようなんですね」〉(「週刊新潮」1979年10月11日号「墓碑銘」より)

 クラウゼンは上海時代からゾルゲと組んでいたが、日本で始めた偽装目的のビジネスで成功してしまった。するとスパイ活動から抜けることを考え、無線係の任務もさぼりがちになったという。秀樹氏が「会ってみたかった」と語った理由はこのあたりにあったようだ。

〈「ゾルゲ事件というと、もっぱら尾崎やゾルゲにばかり焦点が当てられがちですが、クラウゼンの仕事は無線という、下積みの、しかもひどく困難な仕事だったんですね。ゾルゲのような鉄の意志をもった“不屈の闘士”というのではなく、クラウゼンの場合はごく当たり前という感じの人間で、その人間的なところに興味を感じるんですよ」〉(「週刊新潮」1979年10月11日号「墓碑銘」より)

 東ドイツに帰国したものの生活は苦しかった。だが1964年10月、ソ連がゾルゲを「祖国の英雄」と認めたため、翌年にはクラウゼンも功労者として受勲。以後はその評価が維持され、ついには国葬となった。

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