新曲「昭和のおとこ」が好発進の鳥羽一郎、ともに音楽界で奮闘する長男・次男への想いを明かす 台湾での“女子人気”がアップ中という驚きの事実も

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 1982年のデビュー以来、40年以上にわたって演歌歌手を続けている鳥羽一郎。インタビュー第1弾では大ヒット曲「兄弟船」について、第2弾では異色作「カサブランカ・グッバイ」や当初B面だった「海の匂いのお母さん」についての秘話を伺ってきた。

 最終回となる今回は、家族で取り組んだというSpotifyランキング第8位の楽曲、「一本道の唄」から進めてみたい。

長男・木村竜蔵、次男・木村徹二とも積極的にタッグを結成

「一本道の唄」は、俳優で歌手の武田鉄矢が作詞を手がけた人生応援歌だ。「歩いてきました、まだ歩きます」という歌詞が、多くの中高年の励みにもなることだろう。

「当時、歌手生活40周年を迎えるということで、私から直接お願いにうかがいました。武田さんとはいろんな番組でご一緒してお話をさせてもらうなかで、“この方は絶対に演歌が書ける!”と思っていたんです。でも、最初は“演歌は書けないですよ”とモロに断られたのですが、“そんなことないですから”と何度かお願いをして、やっとOKをいただけました」

 作曲は、鳥羽の長男でシンガーソングライターでもある木村竜蔵が手がけている。

「竜蔵が曲を作って、そのデモ音源を歌ったのが演歌デビューする前の(二男である)木村徹二なんですよ。それを武田さんに聞かせたら、『これは、誰が歌っているの?』とすごく関心を持ってくれて嬉しかったですね」

 木村徹二は’25年のシングル「雪唄」が初のオリコン週間TOP10入り。木村竜蔵もまた、その「雪唄」のほか、原田波人「火の鳥」、鳥羽一郎&山川豊による「俺たちの子守唄」など、今や演歌・歌謡曲を中心にさまざまな楽曲の作詞・作曲を手がけており、ともに注目株となっている。

「竜蔵は高校生くらいの時から、当時のプロデューサーの方といろいろな国に連れて行ってもらったことが糧となり、多彩な曲を書けるようになったことが実を結んでいるんだと思いますね。徹二は小さい頃から俺のコンサートに連れてきていたせいか、コブシがコロコロ回って聞いていても心地いいんですよ。それが、持って生まれた才能かもしれないですね。良い悪いとかではなく、個性になっている気がします。今、弟の山川豊や二人の息子と、ファミリーでコンサートを回ることも増えたのですが、日に日に声援が多くなっていて……特に木村徹二、いま来てますよ(笑)」

 そう照れくさそうに話しつつ、他の若手にも目を向けることを忘れない。

「でも、近頃は若手の歌手がみんな頑張っていますね。特に新浜レオンくんは、いつも張り切っていて礼儀正しい。“なるほど、紅白に初出場するというのは、こういうことか”と実感しました。それから、うちの会社(日本クラウン)では、一条貫太くんが昭和スタイルで、海の歌も多いので注目しています。これから自分に合った作品に巡り会えたら、もっと人気が出ると思います」

 続いて、Spotify TOP20までを見ると、レコード会社の先輩である北島三郎とのデュエット曲が3曲もランクイン。ただ、初共演は鳥羽のデビュー20周年を記念した’02年の「演歌兄弟」であり、40年以上も同じレコード会社・同じ演歌チームということを考えると、かなり遅い気がする。

「北島先生は、同じ船村徹先生の門下生で、デビューから今に至るまでとても可愛がってもらっていますが、雲の上の存在のような方なので恐れ多くて。『演歌兄弟』は20周年だからとお祝いを兼ねて、北島先生の方から声をかけていただき、舞い上がってしまいました。これは今でも、カラオケでよく歌われていますよね」

 他に、演歌界で仲良くしている仲間がいるのか尋ねると、

「昔は、“北青山クラブ”と名付けて、北海道出身の細川たかしさん、青森の吉幾三さん、山口の山本譲二さんと年1回くらい集まって飲んでいました。クラブの名付け親は俺だけど、一番年下だから自分の名前なんてなくていいんです(笑)」

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